Cafe Creole / message board at homeless 002

Back to top page

archives


message board at homeless
アットホームレスなメッセージボードの記録 002


read message, or add your message


アットホームレスなメッセージボードの過去の記録を読む。
Sun Mar 1 23:12:11 JST 1998
Makiko Miyake ( Sugioh@classic.msn.com )
皆さん、はじめまして。おくらばせながら今福先生の『スポーツの汀』を読みました。野球とサッカーの比較を読みながら、勤務先の高校の、「野球部」と「サッカー部」を思い出していました。おそらくどこの学校へ行っても、それぞれの運動部に属する生徒はそれぞれにそれらしい雰囲気を漂わせているものだと思います。優等生の(あるいは優等生を演ずる)野球少年と、天真爛漫な(時にいささかノリがよすぎる)サッカー少年。いずれにしても、現在のこのご時世において、寒い冬も暑い夏も、汗にまみれて部活に熱中できるというのは大変貴重なことであるとは思います。〈br〉 さらにサッカーといえば一昨年の夏に訪れたイランのことを思い出します。世界中で日本のアニメは大人気のようですが、それはイランでも同じ、町中に日本製アニメがあふれていました。ただし、女性のハダカなどはもってのほかのお国柄(異教徒の外国人でも、しかも気温は40度を超えていようとも、女性はスカーフで髪を隠し、長いコートで体を覆わなければ鞭打ちの刑だと脅されました。脅しではなくて真剣な話のようですけど)ゆえ、そのアニメはひたすら『キャプテン翼』に限定されていました。日本の大概のアニメだと、いつどこであやしげな場面がでてくるか油断もスキもありませんものね。あのダイアナ妃死去のときも「ふしだらな女が死んだ」と一言で片づけたイランの自負がこんなところにも見えてきます。そんなわけでイランで圧倒的な人気のスポーツはサッカー。キアロスタミ監督も少年たちのサッカーへの熱中ぶりを描いています。それだけにワールドカップ予選の対イラン戦は複雑な思いで見ていました。『キャプテン翼』に熱中しているイランの青少年はさぞやがっかりしただろうな…。外国のスタジアムを占拠して喜びを爆発させ、日の丸を打ち振る日本のサポーターの遠慮会釈の無さに、いささかいたたまれないような思いをいだきました。何はともあれ、「サッカーは金がかからないから貧乏な国でも人気なのだ」という単純な理由だけではなく、スポーツは実はそれぞれの社会の美意識や生活習慣と深く結びついたものであるということを深く納得したことでありました。駄文を書き連ねて失礼いたしました。それでは。
.
Mon Mar 2 00:37:55 JST 1998
Keijiro Suga ( aloha@u.washington.edu )
3月28日、29日に京都大学文学部で「クレオールの構え」と題したシンポジウムが開かれるそうです。参加者は木下誠、西成彦、酒井直樹ほか。詳細はインスクリプトのホームページの掲示板にあります。http://www.inscript.co.jp/ 関西の方は、ぜひどうぞ。
.
Mon Mar 2 23:50:43 JST 1998
Takao Asano ( tasano@quartz.ocn.ne.jp )
共有された幻想を少しも疑うことなく、単に自己が自己であることを確認するためだけに語られる言葉が蔓延する状況において、いま言葉のエコノミー/エコロジーについて改めて問い直す作業が必要とされているのではないでしょうか。制度の内部で安穏と定住し続ける言葉のオナニズムを解体するために、閉塞しきった言語環境から積極的に身を引き離し戦闘の言葉を鍛え直すこと。こうした批評的言説は、自らの言葉を限りなく零に近い不安定な状態にあえて置き直し、自らの言葉に他者の言葉との接続の契機を与え、再び「ことば」を練り上げてゆくプロセスのなかからしか生まれないのかもしれません。私はその可能性をここ数年のあいだに出会った意識の旅人たち(国籍も、社会的身分も、移動の動機も様々な人々)との断続的な対話のなかに探り当てようとしてきました。彼や彼女たちとの対話の内容だけではなく、むしろそこで交された即興的・流動的な言葉の形式のなかに、です。たしかに、それは脆弱なコミュニケーションの手段でしかありませんでした。しかし、即興的に組み立てられ、かつ流動的に変化してゆく言葉を自己表現のための方法として確実に内部化することができたとき、あらゆる同一性の論理に亀裂を穿つ批判力を持った新たな言葉と思考を獲得できる、と私は確信しています。おそらくそれは日常の残滓をまき散らす言葉からは最も遠い地平に立ち上がる言葉だといえるでしょう。
.
Tue Mar 3 21:02:15 JST 1998
Coyote ( aloha@u.washington.edu )
2009年7月22日、奄美大島。2012年5月21日、関東以西の太平洋岸。2030年6月1日、北海道。2035年9月2日、北陸と関東。日本で見られる皆既日蝕と金環蝕です。この4つめだけでも78歳まで生き延びる価値はありそうだな。来年は7月11日、ヨーロッパ。
.
Thu Mar 5 01:13:38 JST 1998
Aloha Brazil ( aloha@u.washington.edu )
心臓
スティーヴン・クレイン

砂漠で
おれは一匹の生き物を見た、裸で、獣じみていて、
地面にしゃがみこみ、
両手に自分の心臓をもって、
それを食っていた。
おれは声をかけた、「旨いか、友人よ?」
「苦い 苦い」とそいつは答えた。
「だがおれは好きだよ
なぜならこいつが苦いから、
そしてこれはおれの心臓なのだから」

.
Thu Mar 12 11:03:08 JST 1998
mika miyoshi ( mikamix@xa2.so-net.or.jp )
とあるメキシコシティーはずれにある酒場のような所を旅の疲れと発熱でさまよっていた。ちょっとハイになってあるいていた。 なんだかお腹が空いているような感じがして、目の前のレストランにふらっと入った。 めんどうだったので、メニューの一番上のタコスセットをオーダーした。 すぐそのおいしそうなタコスが運ばれてきた。 回りを見渡すと、かなり人気のある店のようだ。 メキシコ版ファミリーレストランのような感じの所だ。 さて、色とりどりの野菜があり、もちろんタコスあり。 黄色のピーマンらしきものを片手にとり、とりあえずガブリ。 気がついたときは、まわり中をセニョールたちに囲まれてた。 私の右手がしっかりとEl Hombreに握られ、 手に小山盛りに塩をのせられ、飲まされている私を あのとき、自分の身体から離脱した「私」がわたしをみていた。 食べ物がわたしをどこかへ連れていってしまった。 「あ〜あ、そんな私は異邦人。」 PICA de YUKATAN. て「私」がみているような感じ。 そんな私は異邦人。 PICA de
.
Fri Mar 13 16:45:40 JST 1998
管啓次郎 ( aloha@u.washington.edu )
2028年に小惑星が地球に衝突するってね。それで一部の科学者たちは「大丈夫。核兵器で軌道を変えられる」とおおよろこびしている。核の平和利用という名目には、願ってもないことだもんな。実際、いざぶつかるとなれば、地球人の大多数はそれに賛成するだろう。だが、ほんとにそれでいいのか。衝突を甘受せよ、といえば、終末思想にとらわれたドゥームズデイ・カルトか深沢七郎的人類滅亡教と思われるだろうけど、それでもなお、なんかそれでいいのかと思う。まあ、ぼくなんかはその年まで生きていない公算のほうが大きいけど。
.
Mon Mar 16 01:38:22 JST 1998
Coyoteando ( aloha@u.washington.edu )
図書館流通センターという会社の新刊検索が、最近1980年1月以降の全書籍にまで拡張され、非常に充実し便利になりました(http://www.TRC.co.jp)。単独の著書だけでなく共著、編著、訳書も出ているので、個々の人のこの20年近くの仕事がひとめで見渡せます(品切れのものも、とりあえずリストには上げられている)。80年以降の書籍となると、1950年代以降に生まれた人の著作はだいたいぜんぶわかる。1950年生まれ、ということでふと頭に浮かんだ西谷修は20冊。うん、やっぱりかなりあるな。おなじく1950年生まれの中沢新一は63冊。ひゃあ、これは流行作家並み。そこで流行作家といえば、ぐっと若がえって吉本ばななは45冊。80年代前半の大流行作家だった日系ハワイ系作家テディ片岡義男は189冊。うーん、驚き。しかしもちろん、本といっても内容も厚さもさまざまなのだから、とりあえず文化批評の領域に戻って、筆の立つことでは誰の後塵を拝することもない四方田犬彦は40冊。四方田さんは翻訳はほとんどないので、よく書いたな、と感嘆。批評書の翻訳では圧倒的な活躍をつづけてきた高山宏が、数々の著書と合わせて64冊。これもすごい(70年代の本を加えれば、さらに数点ふえるでしょう)。おなじ宏(たしかおない年)の連想では、ふたたびアカデミックな世界からは離れますが、怪物荒俣宏がありとあらゆる傾向の素材を料理しまくって、なんと286冊。ひゅー。ことのついでに最後に、中学生の甥が以前1日1冊読んでいた赤川次郎はどうかと見ると729冊! 言葉を失うね。1日1冊読んで2年かかる。改めていうまでもないけど、本というのはけっして「冊」という単位で数えられるものではなく、本といってもあらゆる水準があり、長さがあり、志向性があるのだから以上のような数字比べは無意味ですが、ともあれ、世間話として。そして今日も新刊書は生まれ、明日にはその大部分が消えてゆくのか。ああ。
.
Thu Mar 19 05:20:35 JST 1998
管啓次郎 ( aloha@u.washington.edu )
さっき図書館でついうとうとして、睡眠と目覚めの中有を漂っているとき、ふとひとつの言葉を思いつきました。Pax polyglossiana. パクス・ロマーナ、パクス・ブリタニカ、パクス・アメリカーナといった大帝国の安定した支配による一時的安定状態としての平和に代わって、ぼくに追及できることがあるなら、それだと思いました。多言語併用による、絶え間ない調整と交渉による平和。創造的葛藤と衝突をはらみつつ、対話と新たな語彙の開発にいそしむ実践的平和。人は1言語で生活しているときにも、現代にあっては必ず多なる他の諸言語のかたわらで語り書いているとはエドゥアール・グリッサンの指摘ですが、その精神に対する反響として、このパクス・ポリグロッシアーナという姿勢を、提唱したいと思います。
.
Sat Apr 4 11:21:51 JST 1998
Isao Matsuoka ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
 1ヶ月あまりご無沙汰しました。3月28日に京大で開かれた複数文化研究会主催の国際シンポジウム「クレオールの構え」に行ってきました。内容は「クレオール性批判」ということで、マルチニック出身で日本在住の長いガブリエル・アンチオープさん、グアドゥループからジャッキー・ダホメさん、カリブ海地域研究専攻の石塚道子さん、フランス語圏アフリカ文学専攻の砂野幸稔さん、コメントが西成彦さんでした。
 困惑したのはテーマが「クレオール性批判」だったことで、クレオール主義にここしばらく入れ込んでいる私としては頭の整理に大わらわでした。ダホメさんのお話では、フランス植民地としてのアンティルの歴史的・政治的過程が詳しくたどられ、 フランスの政治・文化に統合されていったアンティルの政治的閉塞(独立運動の挫折、フランスの海外県としての政治的統合の進行など)を浮き彫りにされました。「クレオール性批判」という文脈では、クレオール性の主張はこの政治的閉塞性を打破するプラスの面と「文化的レベルで乗り越えようとした限界」があるということでした。その結論としては(いささか陳腐な感じがしましたが)「政治と文化の統一」の方向ということでした。討論で、ダホメさんは「フランス共和主義」が若い世代の中に希薄になっている状況についての危機感を述べられていましたが、ダホメさんの政治的方向が「フランス共和主義」なのですから、フランスの政治的・文化的影響の強さを逆に感じました。アンティルの歴史的・政治的過程の複雑さについて教えられることの多い内容でしたが、クレオール性の主張がもつ豊かさを逆証するものでもありました。<br>  このシンポジウムで私が1番おもしろく感じたのは、フィールド・ワークをおもちになっている石塚さん(カリブ海地域)、砂野さん(フランス語圏アフリカ)の話でした。具体的な地域に即した話がやはりいいですね。コメントをされた西さんのお話がもっと聞きたかったです。西さんの著書『移動文学論(1)、イディッシュ』、『宮沢賢治、森のゲリラ』はとてもいいですから。日本文化とクレオール性という視点をお聞きしたかったのですが、時間の関係で発言がありませんでした。
 先月に読んだ本は高橋均・網野徹哉著『世界の歴史18・ラテンアメリカ文明の興亡』(中央公論社)、高野潤著『アンデス〜風と霧の聖跡〜』、金子光晴・横山良一著『アジア旅人』(情報センター出版局)、東松照明・今福龍太著『時の島々』(岩波書店)、港千尋著『写真という仕事〜クロニクル・1988−1994〜』(河出書房新社)、マイケル・グランツ著『エルニーニョ』(ゼスト)で、珍しく買ってすぐ読みました。その他購入書籍は、ホセ・マリア・マルケダス著『深い川』(現代企画室)、レイ・チョウ著『ディアスポラの知識人』(青土社)、巽孝之監修『身体の未来』(トレヴィル)、南直人著『ヨーロッパの舌はどう変わったか〜19世紀食卓革命〜』(講談社)、上野昂志著『映画全文〜1992−97〜』(リトル・モア)、平岡正明著『座頭市〜勝新太郎全体論〜』(河出書房新社)、野田秀樹著『解散後全劇作』(新潮社)、梁石日著『血と骨』(幻冬舎)、『荒木経惟文学全集2・センチメンタルエロロマン』(平凡社)、『荒木経惟文学全集3・女景色旅』(平凡社)、尾木直樹・宮台真司著『学校を救済せよ』(学陽書房)。購入雑誌は、「現代思想/98・4」(特集・聖書は知られているか)、「思想/98・4」(特集・ジェンダー・セクシュアリティ)、「木野評論vol.29」(特集・流行りの文化超研究)、「論座/98・4」(特集・援助交際をする娘へ)。
.
Mon Apr 6 19:25:12 JST 1998
Isao Matsuoka ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
 明日から仕事がはじまります。朝から、レイ・チョウ著『ディアスポラの知識人』(青土社)を読み始めました。香港系アメリカ人のポスト・コロニアリズム批判に興味をもって買った本なんですが、第2章の終わりまで読んで、歯が立たずページをとじました。中国人のパワーを感じながら。
 昨日、2年前に知り合ったMさんに案内をいただいた「ファション・フォーラム」に行ってきました。大手のメーカーの主催する秋物のファッション・ショーでした。目の保養をして、帰途、大阪の本屋に寄り、今福さんの本で読んでいなかった『移り住む魂たち』(中央公論社)、『遠い挿話』(青弓社)を買いました。今福さんがカリフォルニアにおられた頃の文章なので、読んでおこうと思ったからです。実は6月20日(土)に大阪の高槻でやっている「リゾナンス’90」で講演いただくことになっています。そろそろお願いする講演内容をまとめなければなりません。『移り住む魂』の冒頭にある「人種的・文化的アイデンティティを超えた、自らの歴史的現在を指し示すポイントを意味する言葉として<位置(ロケーション)>という言葉は、ここでも有効だ。アイデンティティという自己存在の「帰属」ではなく、ロケーションという主体的思考の「起点」を確定する試み・・・」いう文章に「そうだ、そうだ」と引き込まれました。もう少し考えて今福さんにメールを打ちます
 ぶらっと家を出て,近所の本屋で、ぼうっと本を見ていると2冊の本を見つけました。臼杵陽著『見えざるユダヤ人〜イスラエルの<東洋>〜』(平凡社)。イスラエルの東洋系ユダヤ人について、今の中東の政治状況とのアクチュアルな関心のもとに書いておられるのはこの人だけではないでしょうか。リゾナンスで一度、「中東とユダヤ人問題」のシンポジュウムを企画してみたいと思っていますので、その関心に入ったので買いました。もう1冊は在日韓国人3世の姜信子著『日韓音楽ノート〜<越境>する旅人の歌をを追って〜』(岩波新書)で、前から興味がをもっていた人なのですが、その彼女の関心事項が「日韓の演歌」であったのかと肩を落としながら買いました。案外、読んでみるとおもしろいのかもしれませんが。では、また。
.
Sat Apr 11 21:26:03 JST 1998
中島さおり ( saori@kt.rim.or.jp )
はじめてアクセスしたこのページで、言語環境がat homelessにあるときにメッセージを残せ、という奇妙な提案に戸惑わなかったのは、まさにそんな状態に あったからで、しばらく前に書いた日記の一部をコピーしました。

フランスに着いてちょうど1週間になる。不在の後、とくに長いこと日本で過ごした後でこの国の土を踏むと、いつでも最初の何日かは奇妙な感じのなかで過ごすことになる。でも今回はまた特別だ。たとえ長期間滞在するとしても、いつかは日本へ帰ることの決まった滞在ではなく、たとえ日本へ帰ることは頻繁にあっても、基本的にここに住むために戻って来たのだから。
わたしは以前8年以上をここで過ごした。ここ2年を東京で暮らしていた間も、春夏の休みごとにフランスに舞い戻っていた。だからひとは、戸惑うことはないだろう、という。確かに、道も、メトロも、パリのあちこちも知っている。しばらく聞かなかったからといって、フランス語がわからないということもない。しかし何だろう、この軽い居心地の悪さ、間の悪さ、不協和音。
わたしが引き上げた1995年からフランスは少しづつではあれ、変わった。そしておそらく私自身も。時間と空間とそこにいる人々はひとつの全体を構成している。パリはわたしの知っていたものと同じものではない。その証拠に、きのうメトロで出会った日本人男性はJETROの所長さんだが、つまりJETROはいまもあり、所長さんもいるが、それは「和田さん」ではない。わたしが人と会うのによくつかったベルギー・ビールのカフェ、「レフ」はもう存在しない。ひとつひとつの出来事は小さいので、毎日をそこで過ごしている者が感じとるには、変化はあまりに緩慢で物事は持続しているように思える。だが、不在だった者には、変化は唐突で、世界が断絶しているように思われる。だから、わたしたち、戻って来た者には、ひとが思うより適応のための時間がかかるのだ。それまで、わたしたちは自分のことを幽霊のように感じる。
フランス語自体も、わたしには少しづつ、戻ってきた。来てから3日たった日のことだ。わたしにはじめて、「magnolia」という語が帰ってきた。そのときまで、この、わたしの大好きな、春を告げる花を、心のなかではずっと「木蓮」とか「コブシ」と呼んでいたのだ。そのフランス語の呼び名は、箪笥にしまった着物のように、完全に忘れ去られていた。この土曜日、散歩の途中で、花がわたしの視野に入ってきたとき、突然、まったく自然に、わたしの奥深くから、「magnolia」という言葉が浮かび上がって来た。「magnolia」と、わたしは何度か口に出して言ってみた。その音を味わい、この名前とわたしの声との結びつきを感じとるために。そのとき、この世界への自分のささやかな絆がみつかった。そのとき、わたしはこの世に再びつながれ、幽霊から人間への一歩を踏み出したのだ。
.
Mon Apr 13 01:32:53 JST 1998
井村俊義 ( toshiyoshi@mtj.biglobe.ne.jp )
カルナリスモと呼ぶのもおこがましいが、弟が結婚するというので、またまた家族で集まり馬鹿騒ぎをするために東京へ行った。彼らは結婚式は挙げずに、その分の金をシリアやヨルダンなどへ旅行するための資金にするのだという。うらやましい。それと時を同じくして、大学時代からの友達が結婚式を挙げるというので、次の日にさらに北上し仙台へと赴いた。桜が見頃だった。難なく涙を誘ってしまうテクニックに感心しながらも、日本中のほとんどの結婚式についてまわるであろう、ある物語が生み出す共同体再確認の儀式性について考えながら、日頃の栄養不足をひたすら補った。そんな消化不良になるような小難しいことを考えてしまったのも、きっと行きの新幹線でたまたまマスターに遭遇したせいだろう。おかげで、tiempo mexicano な時の流れの中で、2時間弱があっという間でした。Gracias.
.
Mon Apr 13 18:34:37 JST 1998
ミヨシルミ ( lumi@kb3.so-net.or.jp )
4月11日、六本木のTNプローブという空間で「汀の詩学」と題された多木浩二さんと今福龍太さんの対談を聴きました。それは「都市港湾のプロセスデザイン」展にちなんだもので、ウォーターフロントの開発というテーマとの字面的な関連から企画された対談のようでした。「知のケーススタディ」でお二人の対談の展開の仕方やダイアローグのトーンは経験していたせいもあって、大きなストライドで飛躍していく展開ぶりを、安心感のようなものすら感じながら聴くことができました。ウォーターフロント、或いは汀という言葉は出てきても、当然それは波の打ち寄せる濡れた海岸であるばかりではなく、干しあがった砂浜やコンピュータの電子配列といった乾いた水辺のイメージが提示されました。二人がお座りになっていた背後の白い壁には、展示の一部である、コンセプトが印字されたビニールのカーテンが天井から吊るされていましたが、それが空調の微かな空気の流れで揺れる様は、図らずも汀の視覚的なイメージを与えていました。会場を出て空を見ると、東京タワーがごく近くにオレンジ色に立ち、やや欠けはじめた鮮やかな月を右上に伴っていましたが、それもまた、天空の汀、その日の私の汀に関する視覚的な体験だったといえるでしょう。
.
Thu Apr 16 05:44:18 JST 1998
Isao Matsuoka ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
おはようございます。
大阪の高槻でやっています連続講座・リゾナンス’90で今福龍太さんをお呼びします。
講演は6月20日(土)午後2時から、大阪府の高槻市民会館でおこないます。講演タイトルは「ボーダーのジンフォスたち〜チカーノとカリビアン・クレオール〜」です。詳しい案内は5月上旬に私のホームページのCafe Resonanceでします。今福さんのご講演が今から待ち遠しくてたまりません。
管啓次郎さんの「コヨーテ読書11」でマリーズ・コンデの『生命の樹』の刊行予定を知りました。管さんの文章を読んで、「カリブにこんな作家がいたのか!」とほんとうに驚きました。来日講演が大阪でもあるとのことですので、ぜったいに聞きに行きます。『生命の樹』の刊行を心待ちにしています。それでは、また。
.
Sat Apr 18 20:51:03 JST 1998
hiroshi watanabe ( f451@catnet.ne.jp )
詩を書いたり、本の編集をしたり、何年かに1度、詩人で映像作家のジョナス・メカスさんを日本に招く仕事をしたりしている渡辺洋と言います。このメッセージ・ボードになってからは初めての書き込みです。最近はジャメイカ・キンケイドさんやゾラ・ニール・ハーストンさんらの本を読んで、ホームページに彼女たちの作品についてのレポートや、ゾラさんの初期短編の試訳を載せたりしています。興味のある方は見ていただけると幸いです。
.
Mon Apr 20 22:36:46 JST 1998
Isao Matsuoka ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
今朝方に今福さんのご著書のすべてを読み終わりました。
振り返ってみますと、「起点」への遡及となった読書体験でした。
読んだ順に書いてみますと、
(1)『クレオール主義』(96・1・17)、『野生のテクノロジー』(96・1・28)、『スポーツの汀』(97・12・31)
(2)『移り住む魂たち』(98・4・11)、『遠い挿話』(98・4・14)
(3)『荒野のロマネスク』(98・4・18)、『感覚の天使たちへ』(98・4・19)
並行して、対談集『知のケーススタディ』(96・12・28)、写真集『人間の大地・労働』(96・2・12)、『時の島々』(98・3・29)
正直に言いますと、『荒野のロマネスク』と『感覚の天使たちへ』は雑誌や映画のパンフレットでの今福さんの文章に引かれて、出版直後に買っていたのですが、当時の私には読み切ることができませんでした。 結局、クレオール主義という現実的な関心から、今福さんのご著書の「起点」に遡行する形で読んでいき、起点の『荒野のロマネスク』を感動をもって読み終わることができました。今、本の山の中からカルロス・カスタネダの『呪術師と私〜ドンファンの教え〜』を見つけだし、読もうという気持ちになっています。(残念なことは、今福さんや管さんが20代の時のご本『ブラジル宣言』が絶版で、幻の本となったことです。今、無性に読みたいと思っています。)いい読書体験をさせていただききました。
先日、ご案内しました今福さんの講演のタイトルにまちがいがありましたので、訂正します。「国境線上のシジフォスたち〜チカーノとカリビアン・クレオール〜」ですので、よろしく。
購入書籍のチェックです。染田秀藤著『インカ帝国の虚像と実像』(講談社選書メチエ)、ジョン・グロス著『ユダヤ商人シャイロック』(青土社)、西成彦著『ラフカディオ・ハーンの耳』(岩波書店・同時代ライブラリー)、宮島喬編『現代ヨーロッパ社会論〜統合のなかの変容と葛藤〜』(人文書院)、『民族で読む中国』(朝日選書)、舟戸与一著『流砂の搭(上・下)』(朝日新聞社)、渡辺脩著『刑事弁護雑記帳〜麻原弁護に至るまで〜』(日本評論社)、『電脳文字と漢字のゆくえ』(平凡社)、『ポケモンの魔力』(毎日新聞社)、『ポップ・コミュニケーション』(パルコ)。古本屋で、港千尋著『考える皮膚』(青土社)、西浦宏己著『アイヌ、いま。』(新泉社)。購入雑誌、「世界・98/5」(特集・侵略の証言)、「文芸・98/夏」(特集・なぜ人を殺してはいけないのか?)、「創・98/5」(キレル少年と酒鬼薔薇)。
.
Sun May 3 10:53:54 JST 1998
井村俊義 ( toshiyoshi@mtl.biglobe.ne.jp )
人の出会いとは不思議なものです。私はなぜ今この人とここにいるのだろうか、とあらたねて考えてみることは、予想のできない時間の流れを進むための何らかの指針を与えてくれそうです。その人と出会うために、空間的な移動を選択してきたように見えても、そこには複雑な要素が入り交じっているのではないでしょうか。心は空間のように区切られたものではないですから、身体の空間的な移動は2つのものの間にある決定を促すことになります。つまり、移動は「目的」であると同時に新たな「原因」を不断に作り出しています。そのような行為の流れの中でほとんどの人が経験したことがある、驚くべき「共時性」を感知する力は、移動や旅が人間の属性として離れがたくあった時代の不可欠な能力の名残ではないかと私は考えています。今ではそのような奇跡は、人間がもともと享受していた数々の能力とともに埋もれてしまったようです。だから、移動や旅を私たちの生活の外面的な形式に限定するのではなく、居ながらにして旅を可能とする精神的なそれを、私たちは生活の中から「想起する」よう要請されていると言えるでしょう。先日亡くなったオクタビオ・パスなら、彼の膨大な蔵書へのグランド・ツアーによってあらゆる空間と時間へと飛翔でき、それを生きる糧とすることができたはずです。このような、旅と本がお互いに流動し合っているという発想は、旅をするように本を読み、本を読むように旅をするという行為を通して、私たちにもう一つの旅の可能性を考える契機を与えてくれます。マスターの新作『移動溶液』を読み、そのカバーを撮影した蓑島さんと飲みながら、私は旅をしているかのように「撹拌された溶液」となって、そのようなことを考えていました。
.
Mon May 4 10:30:07 JST 1998
Isao Matsuoka ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
 今福龍太さんの講演案内をCafe Resonanceのホームページに掲載しました。「境界線上のシジフォスたち〜アメリカ・メキシコ国境から〜」の演題で、アメリカ・メキシコ国境地帯での今福さんの長いチカーノ経験をもとにしてのボーダー論とクレオール論を語っていただきます。また、カリブ海のクレオール論についても触れていただきます。なお、当日はゴメス=ペーニャのパフォーマンス・ビデオも上映します。関西の方はぜひお越しください。(6/20pm2:00、大阪府高槻市民会館にて)
 井村さんの書き込みで、今福さんの新刊書『移動溶液』を知りました。今日は大阪に映画を見に行きますので(アル・パチーノの「ディアボロス」を見るかな?)、さっそく買います。情報、ありがとうございました。
 購入書籍:オクタビオ・パス著『三極星〜アンドレ・ブルドンとシュルレアリスム〜』(青土社)、港千尋著『映像論〜<光の世紀>から<記憶の世紀>へ〜』(NHKブックス)、松田素二著『都市を飼い慣らす〜アフリカの都市人類学〜』(河出書房新社)、崎山政毅・田崎英明・細見和之著『歴史とは何か』(河出書房新社)、金子光晴著『アジア無銭旅行』(角川春樹事務所)、柳美里著『仮面の国』(新潮社)、宮台真司・藤井誠二著『学校的日常を生きぬけ』(現代資料出版界)、『荒木経惟文学全集4』(平凡社)。購入雑誌:「インパクションNo.107」(特集・齟齬のかたち/検証「従軍慰安婦」問題)、「季刊民族学No.84」、「思想/98・5」。
.
Mon May 4 10:53:23 JST 1998
金子遊 ( t93119yk@sfc.keio.ac.jp )
はじめまして。花の都は大東京、東京と云ってもちと広うござんす。生まれは東 京世田谷の奥沢です。一宿一飯の恩義から、『映画芸術』の編集部で働いている 駆け出しの三下でござんす。どちら様も、以後御見知りおきの程を、宜しくお頼 もうします。6月10日に最新号でます。そちらも宜しく。
さて、去る二月の晴れた日に、アルトーのメキシコ征服の舞踏公演がございまし た。その日の朝十時に、慶應の今福ワークの連中と今福氏とが、山谷の泪橋交差 点で待ち合わせをして、半日東京のアンダーグラウンドを旅するという企画がご ざいました。山谷からお台場まで、東京の地下と汀をめぐる、まさにアルトー的 な暴力に満ちた半日となりました。
その時の様子が、DVと8mmフィルムに記録され、このほどアドビで編集され て一本のビデオになりました。今福氏がサウンドトラックに希望された Ney Matogrosso/O cair da tardeのCDから、Heitor Villa-Lobosプロデュ ースのトラック1、5、9が採用されております。近々スニーク上映が予定され ております。
それとは無関係で御座いますが、来る5月15日に恵比寿のみるくというクラブ で、ノイズ環境系のミュージシャンとコラボレーションします。私は16mmと 8mmフィルム映像を担当で、相手はAudio Activeの舎弟分でGeodezikという テクノ系ユニットです。当日は日本でより、英国やドイツでビッグネームになっ てしまったAudio Activeの凱旋公演のようなものらしいです。
偶然近くに居たような場合は、ぶらっと覗いてみて下さい。
.
Wed May 6 14:01:29 JST 1998
Y.IKEDA ( hiyamesi@mail.webnik.jp )
漂泊したいという物思いに取り付かれて旅の情報を探しているうちにこのページに辿り着きました/人生それ自体がが旅なのだから/このくに、このときでさえもそれは旅なわけなのでしょうが/それでも、やはりちがう場所にいたいという欲望がわいてくることもあるのです/また、かえってきたときにでもたちよってみたいものです
.
Thu May 7 02:30:22 JST 1998
石井 栄司 ( e-ishii@kt.rim.or.jp )
今福さんの本からはいつもおおきな刺激を受けています 文科系の院生や、若手の表現者たち、様々な運動に携わる人たちの結節点となるべく活動している現代文化研究会は、今度パーティを開きます 5月24日の日曜日、午後6時から10時まで、場所は新宿のクラブOTO 気軽に遊びにきてください
.
Fri May 8 00:50:40 JST 1998
Isao Matsuoka ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
 今日(もう昨日ですが)、今福さんの『移動溶液』を読み終わりました。井村さんが書いておられるように、今福さんの「移動感覚」が浸みいるように伝わってきて、書物を通じて私自身が移動しているような感覚になりました。
 たまたま偶然に、野田地図公演「ローリング・ストーン」を見たのですが、「国境線上の石の話」でしたので、今度、リゾナンス’90で今福さんに話していただく「国境線上のシジフォスたち」に思いが動いていました(芝居を見る時、こんな風に考えるのはよくないんですが)。それにしても、野田さんの「舞台上での移動」はあらためて「すごい!」と思いました。(もう42歳ですのにね)
 今、港千尋著『映像論』を読んでいますが、映像をめぐる「移動感覚」にはすごいものがありますね。芝居を見る前に、古本屋で加藤薫著『ニューメキシコ〜第四世界の多元文化〜』を見つけました。前日には、以前にリゾナンスにお呼びした大塚和夫さんが書いておられるので、『岩波講座・世界の歴史21(イスラーム世界とアフリカ)』を購入しました。それでは、おやすみなさい。
.
Fri May 8 10:45:28 JST 1998
井村俊義 ( toshiyoshi@mtj.biglobe.ne.jp )
ナニ!『ニューメキシコ』を4月に買ったばかりだというのに、もう古本屋ですかい。サウスウエスト派の私としては、図版も多く感動ものの本でして、大事に読んでいるところだったというのに。それと松岡さんの文章から、10数年前に野田の芝居ばかり見ていたころを思い出しました。下北沢のとある酒屋で、彼が公演の後、いつも仲間と一緒に飲んでいたのを覚えています。自分も芝居をやっていたので、神様のような存在に「当時は」思えましたが。それは、私が初めて自力で引っ越しをし、「明大前」に住んでいた頃です。それから「5年間」の大学時代に10回引っ越しをし、今は「名大前」に住みたいと思っている今日この頃。
.
Sun May 10 11:07:27 JST 1998
Isao Matsuoka ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
 先ほど、行きつけの喫茶店で港千尋著『映像論〜<光の世紀>から<記憶の世紀>へ〜』を読み終わりました。喫茶店は公設市場(まだこんな名前が残っているっていいでしょう)の入り口にあるカウンターだけの小さなもので、常連さんは市場のおっちゃんやおばちゃんたち。私は毎朝、ここでコーヒーを飲んで、仕事に行きます。今日も、「1割、売り上げが落ちた」とか、店じまいをするお店の話が耳に自然と入ってくるなかで、港さんの本の最終章を読み終わりました。
 最終章は「なぁぁぁんと!」盲目の写真家の話でした。スロヴェニア生まれで、パリ在住のユジェン・パフチャル(この写真家をまったく知りませんでした)の写真についての分析から、映像(視線)と「記憶」の問題についての今後を示唆するすごい文章でした。港さんの『記憶〜「創造」と「想記」の力〜』(講談社メチエ)を前に読んだのですが、この最終章には目をみはりました。港さんの本で読んでないものを取り寄せようと思いました。写真集も。
 昨日で、今福さんの講演の第1段階の準備(ミニコミ紙への連絡、リゾナンス同人への連絡、検索サーバーの登録内容の変更、E-mailでの連絡)を終わりましたので、今日はゆったりとした日曜日になりそうです。それでは、また。
.
Mon May 11 17:45:33 JST 1998
Keijiro Suga ( aloha@u.washington.edu )
おひさしぶりです。松岡さん、井村さんの積極的な発言を中心に、ようやくメッセージボードがコミュニケーションの場として軌道に乗ってきたようですね。今福さんの『移動溶液』、タイトルがいいですね。太平洋のこちら側にはまだ届いていませんが、楽しみです。よろしかったら、どなたか少し詳しい書評を書いてみませんか。カフェのどこかに載せられるのでは。また『ニューメキシコ』という本の発刊もここで知りました。どんな内容なのかな。ぼくも10年来、『ニューメキシコ』『アリゾナ』という二部作の本を書こうと思いつつ、ぜんぜんできないうちに先を越されてしまったようです。4月11日の中島さおりさんの書き込み、非常に興味深く拝見しました。気持ちはすごくわかるけど、ひとつ疑問。自分の中の言語も、やはり「その国」にゆかなければよみがえってこないものでしょうか。ぼくは「言語」とその「物理的空間」とはまったく無関係、人はどこにいようが自分の話したい言葉で話す権利があると思うんだけど。言語は土地には所属しない。人にも、血にも所属しない。とはいっても人は日々耳にする言葉に全面的に支配されているとも思いますけれど。それでは、また!
.
Mon May 11 22:47:04 JST 1998
Isao Matsuoka ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
 管さん、お久しぶりです。なつかしい声を聞いた感じでした。『生命の樹』の翻訳が山を越されたのかなと創造しています。
 先日、井村さんからメールをいただきました。今福さんの講演に名古屋からお越しになるとの連絡に嬉しくなりました。また、滋賀県の方で、Yahoo!経由で連絡をいただき、網野さんの講演から参加していただいた方がいます。今福さんの講演の連絡をしましたら、5月の連休にメキシコ経由でキューバに行かれたそうで、興味があるので、ぜひ参加したいとの返事がありました。講演の後に、今福さんや井村さんたちと一杯やりたいなと思っています。こんな楽しい出会いがネット上でできるなんて、1年4ヶ月前まで「絶対パソコンはやらんぞ!」と言っていた時には考えられないことです。
 管さんのおすすめのように、印象風の感想だけでなく、『移動溶液』の何にひかれるのか、まとめてみたいですね。限定された生を越えたいと思う時、今福さんや管さんの文章の何に引き寄せられるのか、まとめて考えたいと思います。いずれ、書きます。今、港さんの本をまとめて読もうとしているところです。それでは、また。
.
Tue May 12 11:20:11 JST 1998
IMURA,toshiyoshi ( toshiyoshi@mtj.biglobe.ne.jp )
知床半島の付け根にある斜里駅から、歩いて20分くらいのところにぽつんと立っている博物館に、残雪に埋もれた歩道を踏みしめながらこの春訪れた。それほど季節外れというわけではないのに、訪問者は午前中いっぱい誰も現れず、そのおかげで普段展示していない動物の剥製などを、知床をフィールドワークにしている学芸員の人に見せてもらいながら、話を聞かせてもらうことができた。熊とばったり出会ったときのことなどを冗談を交えながら話してくれたりした中で、僕がいちばん印象に残ったのは、自然に対する、直感的で斬新なと言ってもいいような向き合い方だった。曰く、自然は展示するものではない。自然は見て回るものではない。数日間の滞在による「参与観察」をした者がもっともわかったような顔をしている欺瞞。知床の自然を残すためにあらゆる場所が立入禁止になっているという矛盾。そして、自然は語るものではない、という指摘。「自然のために自然を語る必要などない」という言葉が、僕には、「アイヌのためにアイヌを語る」という論法の欺瞞と重なって聞こえてきた。頭の中で、メキシコ・シティの国立人類学博物館のインディオの取り上げ方を思い浮かべながら。もちろん、自然は自らを語らないから、同様の視点で語ることはできないが、それだからこそ考えさせられる指摘であるとも思えた。定住生活を基盤とした上での「観光の時代」と呼ばれて久しい時代における、無責任な観光客に対する嫌悪感を間近に感じとり、僕はあらためて移動の侵略的な性格について思いを巡らしていた。移動と観光と放浪と亡命と離散と侵略との相関的な関係を。今福氏のようにやすやすとあらゆる場所に溶液のように入り込み、その土地の色に染まっていき、さらには自分も内部から撹拌していく、という芸当は常人にとってはまったく至難の業なのだ。あの本は、「他所へ」移動すること自体の重要性を単純に称揚しているわけではない。身近な山や海や川のことを、あれだけ嬉々として(?)語れるというその感覚において、すでにそれは移動感覚を要する、と言っているのだと思う。そうでなければ、僕たちは世界中のどこに行こうと、侵略者のまなざしをしていると指摘されるに違いない。・・・車窓から見た斜里岳のあまりの晴々とした美しさのせいで反射的に電車を降りてしまった街で、それから、僕は2泊したのだった。
.
Tue May 12 13:06:33 JST 1998
jimmy ( jimmy@sapnet.ne.jp )
私が世界の海を旅した、旅行エッセイに水中写真と、シーサイドフォトをちりばめ オンライン週間連載中です、素人による読みやすい切り口です。波の音とともに 鑑賞してください。
.
Tue May 12 13:11:22 JST 1998
jimmy ( jimmy@sapnet.ne.jp )
イルカ/海水魚が鑑賞できる、水中図鑑です。私が撮影した14000点の 水中写真から選び掲載しています。
.
Fri May 15 08:36:54 JST 1998
Keijiro Suga ( aloha@u.washington.edu )
 雑誌「大航海」で形態人類学者の諏訪元氏へのインタヴューを読んで、あっと驚いた。特に次の二点。
 まず猿人はサルに比べて犬歯が小さい。「これは性選択の影響です。つまり、オス同士のメス獲得の闘いと関係します。犬歯が小さいのは、そうした闘いがある社会とは根本的に異なっていたからです。(中略)人間の社会は、少なくともアウストラロピテクス段階で、オス同士の攻撃的な関係による社会的な統制はなくなっていた。別のものによる統制が行われていたわけです。」
 つまりサルからヒトへの第一歩は、肉体的暴力による調整以外の調整方法を、社会にもちこんだことにあるわけだ。社会全体、特にオス同士の協同が生存のために絶対に必要になるような、環境の変化があったことが第一に考えられる。そのときには犬歯を攻撃の道具として他の種に対して使わなくてもいい、つまり捕食のためにも防御のためにも、別の身体技法ないしは道具が開発されていたと思われる。同時に、オス同士の葛藤を回避するために、ある種の象徴操作がはじまったと見ていい。表象による暴力の差延がヒトの起源だという、エリック・ガンスの命題が、ここで生きてくる。
 ついで、ヒトにはなぜ体毛がないのか。これは以前大流行した「水生のサル」説をなんとなく鵜呑みにして、水際で出たり入ったりして暮らしているうちにヒトはつるつるした体になったのだという、まるでヒトをなりそこないのイルカのように位置づけるイメージをぼくも漠然と信じていた。しかし諏訪はいう。「体温調節に関しては、人間が毛のない利点は、汗を流して体温調節するためだという説があります。(中略)実際、アフリカからユーラシア大陸に広がったわけです。すると、日中暑いなかを歩くと、汗による体温調節が発達し、毛がなくなっただろうと言われている。」熱帯歩行が毛を無くした! そうか、だから直射日光を避けるために頭のてっぺんにだけ毛が残ったわけか。なんとなく納得。
 以上の二点を総合するなら、暴力を回避することと暑くても汗を流しつつひたすら歩くことは、ヒトがいまのようなかたちでヒトになるにあたっての一大事だったということになる。この伝統は、継承する必要がある。形態人類学はおもしろい。
 
.
Sun May 17 09:20:50 JST 1998
Isao Matsuoka ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
 先日、リゾナンスの今福さんの講演予告がうまく検索サーバーに出ているかどうか調べていましたら、中部大学の今福研究室のサイトが見つかりました。サイトの名は diasporamerica です。今福さん、井村さんら5人の方の文章があり、「移動感覚」あふれる大変個性的なページで、楽しみが増えました。
diasporamerica の URL は http://www.geocities.com/Baja/Dunes/4500/ です。一度、のぞいて見られることをおすすめします。
 その中の EDITORIAL LOG で、「ちくま」5月号から今福さんの「シェークスピアと “Americas”」の連載開始を知り、入手しました。シェークスピアのカリブ海からの「読みかえ」の百年、複数のアメリカへの百年を展開されるようで、期待に胸がふくらみました。では、また。
 購入書籍:サンドラ・シスネロス著『マンゴー通り、ときどき さようなら』(晶文社)、写真集で、関野吉晴著『グレート・ジャーニーC〜人類400万年の旅・アラスカ編〜』(毎日新聞社)、古本屋で、『シジフォスの笑い〜アンセルム・キーファーの芸術〜』(岩波書店)。購入雑誌:「世界/98・6」(侵略の証言II)、「ちくま/98・5」(今福さんの連載開始)。
.
Sun May 17 10:50:04 JST 1998
Ryuta Imafuku ( archipel@mail.dddd.ne.jp )
 「素晴らしいプレーでした」
 「別に普通です」
 「今日のあのパスは狙っていたんですか?」
 「適当に蹴っただけですけど」
 「あの瞬間には何を考えながら走っていましたか?」
 「何も考えていません」

 ゲームが終わり、一つ一つのプレーへの事後的なコメントや評価を引き出そうとして中田英寿に詰め寄った記者たちの問いかけにたいし、中田特有の人を食ったようなぶっきらぼうな返答がこれである。こうした中田の愛想のない返答に表情を硬直させ、あからさまに不快を表明するインタヴューアも多かった。中田の記者にたいする協力心のなさはたしかに歴然としている。取材へのあからさまに拒絶的な態度が、プロ意識に悖ると考える人もいた。だがここでほんとうに問題とすべきは、こうした返答のなかに中田の積極的なメッセージを読みとることを、私たちが怠ってきたという点である。この一見ぶっきらぼうな対応は、あるいは、出来事を振り返って解説を求めようとする質問にたいして答えがどうしても見つからないという、中田自身の素直な困惑の表明に他ならないのではないか。彼にはおそらく、瞬時におこる一つ一つのプレーの由来を説明する、いかなる言語も物語もない。プレーは、それが遂行された瞬間に完結し、終了し、充足する。そこに回顧的なコメンタリーが侵入する余地など、はじめからないのだ。プレーにかんする事後的な解説(解説はつねに事後的でしかあり得ない)が不可能である理由を、中田自身はつぎのように簡潔に語っている。「その瞬間に起こったことは、二度と再現できない。もちろん、言葉なんかで言い表せない。俺はその瞬間のプレーに賭けているわけで、振り返ることには意味がないから・・・。もしも過去のプレーを褒められることに満足するようなことがあったら、俺はその日にサッカーやめますね」。多少の気負いとともにここに真摯に表明されているのは、まちがいなく、スポーツを因果論的な説明論理からかぎりなく遠ざけようとする、プレーヤーによる本能的な「反-物語」への確信である。中田はヴィデオ・テープに録画されたリプレーをほとんど見ない。過去の偉大な選手たち、ペレやジーコやマラドーナのゴール集のようなヴィデオにも興味を覚えることはない。中田にとってサッカーとは、まさにゲームのさなかの、いま、ここにおいて完結し充足する運動にほかならず、プレーする快楽や美意識もまた、すべてそうした瞬時にかたちをなし、瞬時に消滅してゆく「現在」のなかにしかなかったからだ。だが、世間を覆い尽くすのは、プレーの由来をある因果律によって説明し、原因と結果との対応として示そうとする強迫観念にも似た物語の衝動である。自ら努力をした成果が出た。相手を徹底して研究したことが勝因だ・・・。そこでは、ゲームに流れる充足した「現在」の連続への陶酔的な感覚があっさりと忘却され、結果を吟味し、評価し、反省するといった、回顧的な語りのモードによって「サッカー」を再現しうるという幻想がまことしやかに信じられている。そして日本のスポーツ・ジャーナリズムも、サッカーファンも、こうした幻想の落とし穴にはまりこんだまま、厚顔無恥ですらある物語願望を無自覚に垂れ流している。中田のぶっきらぼうとも見える言葉の真意は、サッカーを回顧的な「物語」や「情報」としてただ縮小再生産して喜ぶこうした欺瞞的信仰への、本質的な批判以外のなにものでもなかったのである。(詳しくは、『本の話』6月号の拙稿「ゲームの終焉に抗して---中田英寿と反物語」をご覧下さい)
.
Sun May 17 12:30:46 JST 1998
toshiyoshi imura ( toshiyoshi@mtj.biglobe.ne.jp )
サッカーの日本代表がフランスに行けると決まってから、どこの本屋でも中田の写真などを表紙にした無数の(と僕にはそう思える。商業的に成り立っているのか?)雑誌や単行本(あるいは文庫も)が一角を占めるようになった。もちろん紙媒体に限らず、いまやテレビでもラジオでもどこでも、サッカーは一時的な日本の国技になりかわり世の中を席巻している。そこでは、日本代表選手の各々の単線的な個人史や美談、勝利のみに異様に執着した秘策と呼ばれる精神主義などが、まことしやかに横行しているようだ。僕はどの本もしっかりと手に取ったことはなく、テレビで「日本代表が一次予選に残るためには!」のような特集もすかさずチャンネルを変える人間なので(そうではないものは見る。NHKでリネカーが各国の昔の代表を訪ねつつ振り返る番組は面白かった。実はみんなそれぞれが勝手なことをやった上で、結果的に連携しあい、一部の人間が天才と呼ばれるようになったのだということがよくわかる。しかし、ゲルト・ミュラーとかクライフとかが、僕が小・中学生だった頃のちょっとしたヒーローだったことを思い出し、野球少年だった僕がいったいサッカーの何に引かれていたのかを考えることができたのも収穫だった。ミュラーの型破りな奔放さを私は再確認した!)何も言う資格はない、などとは全然思っておらず、大いに語りたい一人なのだが、結局「我々はサッカーの何を見ているのか」という疑問に尽きる。南米のサッカーを説明する本がすぐに出版される日本で、アルゼンチンとこういう形で交流する機縁をもっと楽しんでもいいのではないか。そういえばこの1カ月、僕はリッキー・マーティン(仏大会の公式テーマソングを歌っている。彼がかつてメヌードにいたとは・・・)ばかりを聞いていて、変なところで「サッカーっていいなあ」と思っているわけです。いきなり1曲目が[spanglish version]とあり、スペイン語圏のスーパースターが英語圏のへの進出を、フランスにおけるサッカーのW杯で行わうことの象徴的な意味について考えてしまいます。それと、日本チーム以外ではメキシコを応援しようと思っている僕は、メキシコのオッズの低さに憤慨し、さらに、朔太郎の5月の詩「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し/せめては新しき背広をきて/きままなる旅にいでてみん」を愛誦しつつ、いまからテレビにかじりつこうとたのしみにしているのであります。
.
Wed May 20 00:44:21 JST 1998
Takao Asano ( tasano@quartz.ocn.ne.jp )
アメリカの友人からメイルが届く。ぼくが友人の自宅に"old man worm"を忘れていったと書いてある。"old man worm"?ぼくはそれがなんだったのということをすっかり忘れていて、さっきようやく思い出すことができた。…ぼくらは友人お気に入りのサンタクルーズの海岸を歩いていた。そしてぼくの日本への「オミヤゲ」に最も素敵な漂着物を探そうということになった。曇り空の海岸には丸く磨かれた石や貝殻の破片、そして巨大な流木まで転がっていた(エルニーニョ現象の影響かな?)。あれでもない、これでもないと漂着物を手にとっては砂浜に戻したり海に投げたりしながら、友人は無邪気に笑い、ぼくにこう言った。「海岸を歩くのは大好き。いつもわたしを幸せな気分にさせてくれるから。」誰もが言いそうなこんな友人の台詞を聞いて、しかしぼくは心のなかで大きくうなずいていた。友人の身体には太平洋と大西洋を越えてアメリカへ移住した祖先の血が流れ、融合している。だから、波がうねりたえず流動する汀のような地勢は、友人が自分自身を強く意識するための場所として最もふさわしい。しばらく海岸を散歩しながら、最終的にぼくと友人が「オミヤゲ」として選んだのはねじれたかたちが魅力的な木の枝だった。そして、友人の人なつっこい息子がそれを直観的に"old man worm"と名付け、ぼくも友人もその名前が気に入っていた。…忘れ物を取りにいく。ただそれだけのためにアメリカに行ってもいいなといまぼくは思っている。
.
Wed May 20 02:20:45 JST 1998
Takao Asano ( tasano@quartz.ocn.ne.jp )
奈良・京都の寺々を巡っていて、ぼくがいつも気になるのは「あの」和辻哲郎の著書『古寺巡礼』の記述から感じる動揺、というか興奮だ。『古寺巡礼』はまず和辻がアジャンター壁画の「熱国の強烈な色彩」に驚くところから始まる。そして、彼は絵画の官能性に陶酔し、風呂の享楽について語る。法隆寺を訪れた和辻はこんなことを書いている。「思えばこの種の大芸術は民族と文化の混融からきた一時的な花火であった。」寺や仏像のマテリアルな空間に関われば、当然生まれる認識だ。また、漢字と仮名文字について述べている箇所ではこんなことも。「固有の日本文化が外来文化を包摂したのではなく、外来文化の雰囲気のなかで我が国人の性質がかく生育したのである。この見方は外来文化を生育の素地とするという点において、外来文化を単に挿話的のものと見る見方と異なる。この立場では、日本人の独創は外来文化に対立するものではなく、外来文化のなかから生まれたものなのである。」しかし、こうした記述は和辻が文化的交通性を一気に「日本人の独創性」などといった固定的・実体的存在に還元してしまっていることも物語っているのだ。そもそも寺や仏像を眺めて自らの日本人性を再確認するとしても(悪い癖だ。ぼくもしばしばそうしてしまい複雑な気分になる)、それらを鑑賞するまなざしというのは「日本人」にとって本質的なものっだったかは怪しいと思う。(詳しくはわからないけど、乱暴に言ってしまえば、こうしたまなざしはフェノロサに代表されるような「西欧的」なまなざしを内面化したものなのではないだろうか?)ところで、5月の奈良・京都を汗を流しながら、こんな少々頭でっかちな「古寺巡礼」をしているぼくの耳のなかで多様な言葉が響きあっていた。日本語、英語、ポルトガル語、中国語、ぼくにはまったく理解できない言葉…。絵葉書やお土産を売っているおばあさんは、道を行くすべての人々に向かって等しく「ハロー、ハロー。」と呼びかけていた。
.
Wed May 20 20:12:02 JST 1998
古谷祐司 ( y-furuya@heibonsha.co.jp )
カリブ海のクレオール文学の女性旗手、マリーズ・コンデさんが『生命の樹』(管啓次郎訳、平凡社)および
『わたしはティチューバ』(新水社)の邦訳刊行を機に、フランス大使館の招きで来日します。
東京、札幌、大阪で公開講演が行われるほか、
カフェマスターおよびカフェと提携の企画も予定されています。

詳しい予定はカフェの掲示板に記しましたので、
是非みなさん聴きにいってください。

.
Wed May 20 22:08:36 JST 1998
Isao Matsuoka ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
 マリーズ・コンデさんの講演案内を見ました。かならず聞きに行きます。楽しみです。大阪は6月13日(土)ですから、都合よいです。
 翌週の20日(土)は今福龍太さんの講演です。(午後2時、大阪府高槻市民会館)関西方面の方はぜひお越しください。
 購入書籍:坂井隆著『「伊万里」からアジアが見える〜海の陶磁路と日本〜』(講談社選書メチエ)、V・E・フランクル著『フランクル回想録〜20世紀を生きて〜』(春秋社)、宮田律著『イスラム世界と欧米の衝突』(日本放送協会)。
.
Wed May 20 23:33:12 JST 1998
Keijiro Suga ( aloha@u.washington.edu )
コンデの講演、ぼくは行けませんが、よろしくお願いいたします。特に札幌での集まりは、おもしろいものになりそうですね。さて、インターコミュニケーションセンターで開催中の「移動する聖地」展での港千尋+今福龍太の対談が、電話で聞けるそうです。時間は5月21日夕方6時半からの2時間。電話のアクセスは6時25分から開始。03ー3826ー7160にかけ、録音にしたがってパスコードとして003344を入力するだけ、だそうです。興味のある方は、どうぞ。
.
Sun May 24 01:03:52 JST 1998
Isao Matsuoka ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
 今日、リゾナンス’90の講演案内(今福さんの講演チラシ)を京都のジュンク堂に持って行き、以前、管さんが書き込んでおられた雑誌「大航海」(98・6月号)を買いました。
 特集は「人類の起源と現代(考古学最前線)」で、その中の片山一道さんと山極寿一さんの対談で、最近、ヒトの定義を「ホモ・モビリタス」と言うと知りました。「移動するヒト」・・・・なるほど!
明日は、取り寄せた写真集、関野吉晴著『グレートジャーニー〜人類400万年の旅〜』(毎日新聞社)を眺めて過ごします。(2、3巻が来ましたので、4巻まで揃いました。)
 注文していた港千尋著『群衆論〜20世紀ピクチャー・セオリー〜』(リブロポート)と『注視者の日記』(みすず書房)が到着。ホセ・マリア・アルゲダス著『ヤワル・フィエスタ(血の祭り)』(現代企画室)も到着。
.
Fri May 29 22:37:27 JST 1998
Isao Matsuoka ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
 『生命の樹』が売れています!
 今日、注文していた『生命の樹』を高槻の行きつけの本屋(桂屋)さんで入手しました。
 その時の桂屋のおじさんの話。「平凡社へ電話をしたんですが、注文が多くて、もう在庫がないそうです。」
 おじさんは好奇心の旺盛な人で、未公開の映画でビデオ化された掘り出し物を見つけて紹介してくれたり(ニュージーランド映画に詳しくて、ビデオを見る会も一緒にしました。)、リゾナンスのビラをお客さんに配ってくれます。
 私の注文した本で「いい本」と判断したら、別注して棚に2,3冊並んでいたりします。ということで、『生命の樹』を別注して、「在庫無し」と分かったわけです。
 さい先のいい販売状況のようですね。明日は京都で研究会がありますので、京都のジュンク堂、駸々堂の店頭販売状況を見てきます。6月13日のマリーズ・コンデさんの講演を楽しみにしています。では、また。
.
Sun May 31 02:05:10 JST 1998
Keijiro Suga ( aloha@u.washington.edu )
松岡さん、筋金入りの書店ウォッチャーならではの報告、ありがとうございました。これを機に「町の本屋さん」のありかたについて、改めて考えさせられました。TRCのようにインターネットで検索し購入できる方式が充実してくると、どうしても一般の書店は追い詰められます。けれども店頭で未知の本に出会い、その「もの」としての存在感に打たれ、ページを開いてとびこんできた言葉に衝撃をうけ、ときには話のわかる店主とふたことみこと言葉をかわすといった一種の「口承的世界」の魅惑は、何物にもかえがたいはずです。ゴミばかりを廃虚のようにつみかさねた大書店に抗し、気概によりみずからをささえ、書店を訪れるお客さんたちが品揃えを育ててゆくような本屋が見直される時期は、必ずやってくると思います。その点、あくまでもインターネットではなく「町の本屋」に注文するという松岡さんの姿勢は、そうした本屋さんたちに対する連帯の表明でもあるわけで、それ自体、文化的戦闘だといえますね。ぼくが日本でぜひこれから定着してほしいと思うのは、作家による書店での朗読。机をおいただけのばかげたサイン会などやめて、ともかく朗読して聞いてもらうくらいのことを、著者はみんなやるべき。何も小説や詩にかぎらず、ノンフィクションでも、評論的な文でも、どしどしやればいい。さらには小学校、中学校の、講堂などではなく個々の教室に、著者たちが出向いて直接子供たちに語りかける。メディア化されない小規模な直接行動以外に、本当に有効な道はないのではないか、と思います。
.
Sun May 31 06:26:46 JST 1998
Isao Matsuoka ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
 昨日、京都のジュンク堂では『生命の樹』が6冊、平積みになっており、その横に『わたしはティチューバ』が3冊ありました。25日発売とのことですので、もう少し平積みだったのかもしれません。一緒だった友人に『生命の樹』を奨めたら、1冊買ってくれました。
実はここの店長さんとは、ドキュメンタリー作家の守誠さん(リゾナンスでお呼びした方です。)の出版会でお会いして以来のお付き合いがあり、リゾナンスのビラを置かしてもらっています。お店に行った時、コーヒーを飲みながらお話できるのが楽しみです。本屋の見識を感じました。
 駸々堂は予想通り駄目な本屋でした。『生命の樹』は1冊しか入っていませんでした。高槻の西武百貨店にも駸々堂が入っていますが、取り次ぎからの機械的配本だけの書店で魅力がありません。
 高槻には駸々堂が入る前にコーベブックスがありました。この本屋さんには出版状況に大変詳しい方がおられ、リゾナンス発足時の知恵袋でした。残念ながら、経営不振で撤退し、その後に駸々堂が入っています。彼も今は他の業界で仕事をしています。
 今では、高槻で親しく出入りしている本屋さんは間口2間程度の小さな桂屋さんだけです。他に古本屋さんでオランダ屋というのがあり、懇意にしているお店です。茨木・高槻等に7店があり、リゾナンスのビラを置かしてもらっています。この店とは、茨木で開店して以来のお付き合いで、リゾナンスの応援をしてもらっています。
客との直接的接触の中で本を売る書店がほんとうに少なくなったですね。 それでは近々、『生命の樹』がどんな置かれ方をしているか、一度、大阪の書店も見てきます。
.


アットホームレスなメッセージボードの続きを読む。