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アットホームレスなメッセージボードの記録1998.08


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アットホームレスなメッセージボードの過去の記録を読む。

Sat Aug 1 00:22:24 JST 1998
Barrio Boy ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
しかし一人で書き続けるのは寂しいな。レベルうんぬんを別にすれば、いくらでも駄文が湧き出てくるからなあ。師に「井村君は考える前に手が動いてる」とよく言われるのも、むべなるかなである。もう不治の病なので、マスターでも止められないはずだ。氏のあきれ顔が目に浮かぶ。旅先でもカメラは持参しないが、毎日何かをノートに書き付けるというタイプだし。そういえば今日、名古屋大学の先生と話をしていたら、「スタンフォードで石井さんに会い、今福さんの話題が出た」とおっしゃってました。アメリカでタカキの授業に出ていたというその先生の授業では、タカキのA Different Mirrorの「チカーノの章」を発表し、ジミー・サンティアゴ・バカの詩を読み、「El Norte」を見た。久しぶりのチカーノワールドで楽しかった。
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Sat Aug 1 22:51:42 JST 1998
Calamares ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
名古屋から帰って来て、どうしても仕上げなければならない作業があり、昨日までやっていました。
そんな時ほど、読みたい本が出てくるもので、並行して今橋映子著『パリ・貧困と街路の詩学』を読み上げました。これはいいですよ。
20年代の終焉としてフィッツジェラルドがイントロで、30年代のパリの外国人としてベンヤミン、アンドレ・ケルテス、ヘンリー・ミラー、ブラッサイ、佐伯祐三、オーウェル、ヨーゼフ・ロート、金子光晴と目の眩む展開だった。
読み終わって、本棚よりヨセフ・ロートの中編小説集『聖なる酔っぱらいの伝説』を引っぱり出して読んでしまった。「皇帝の首」がいいですね。

昨日、「A」(森達也監督)を見ました。力作でした。サリン事件後の「オウム」を、広報副部長「A」を通して描いた作品です。
オウムの宗教的世界とは距離を置きながら、事件後のオウムを取り囲む「世間」(マスコミ、警察権力、「普通」の市民たち)を冷徹な目で描いている映画で、オウムの外の世界の怖さを感じさせます。
ただ、残念なのは後半から、監督の「A」に対する感情移入が目立ち(28歳の「A」という人物は何か頼りなげで、それでいてきちんと教団の後始末をする頭の切れが魅力的です。)、彼が祖母と再会する(彼を普通の「世間」にもどしてやりたいという監督の願望の?)物語と移行するあたりが不満でした。
日本の転向の歴史で、いつも登場してきたのが、親であり、「家」であったのではなかったか。(中野重治『村の家』など)出家して、オウムに集まった人たちは、ある決意のもとに、その「家」から離脱した人たちではなかったか。宗教を信じていない(私はそうだが)人間が、それを信じる人の内面には一定の「留保」(距離)を保持して、対することが誠実なのではないかと思う。
しかし、なかなかいいですよ。オウムを袋叩きにする世情の中で、カメラを据える映画人としての視角は立派だと思った。必見です!

購入書籍:山田登世子著『リゾートの世紀末〜水の記憶の旅〜』(筑摩書房)、橋爪紳也著『祝祭の<帝国>』(講談社選書メチエ)、「思想・98/8」(パブリック・メモリー)。
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Mon Aug 3 14:11:06 JST 1998
los pasos perdidos ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
大須祭りでサンバ・カーニバルを見ました。下町特有の雑然としたイメージの大須に、ひたすら陽気なブラジル文化が移植されるという組み合わせは、人間の本能を刺激する活気や熱気という原初的な次元の渦のなかで見事に一体化しているように思えました。確かに、普段日本で暮らす者が、いきなりあの世界に入り込むのは難しいとしても、ほとんどの人は心の中で「リオに行きたいぜ」と思ったことでしょう。中部大学院卒業生かつ大須っ子の魚住くんによると、大須周辺は以前にも増してブラジル人が増えてきているそうです。マスターの、名古屋での最後のパーティーをここで催したというのは正解だったんですね。しかし最初に「大須でサンバをやろう」と言ったのは誰なんでしょう? その後、「日本最古のビアガーデン」と銘打つ鶴舞の「浩養園」へ行き「ビアガーデン文化」を堪能し、ビートルズのライブをやるという栄の「ヤア!ヤア!ヤア!」に行きました。どこでもあるんですね、こういうのは。「ビー研」出身の僕は、ビートルズのそれぞれの曲が必ず何かの記憶と直結してしまいます。さて、十数年の時間を飛び越して昔の友達に会い、クラスメートの各々の近況で盛り上がったその前の晩、僕は「時間」の何たるかについて考えていました。「時間」は必ず物語を作ってしまうのだ、ということについて。同窓会名簿にあった2つの「死去」の文字は、物語の終焉(FIN) と同じです。自分の「物語」を語る(自己紹介をする)ということは、フィクションを作り上げるのと同じように、どうやってもすくい取れない自分をあえて意識化する行為と言えるでしょう。「私」という何かは、どのようにしたら他者(自分)に向かって説明できるのでしょうか。
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Mon Aug 3 21:55:06 JST 1998
T.Miyata ( michaux@hotweb.or.jp )
どうも最近「国境」という言葉にひかれてしまう。もしくは「境界」に。昔、 新潮社から「03」という雑誌が出ていたのだけれど、その特集の中に一度 「越境せよ!」という特集があったのを記憶している。物理的地理的越境から 心理的越境を含めた広義の「越境」をコンセプトとした中身だったのだけれど。 誰かあの雑誌が好きだった方はいないでしょうか?創刊号の表紙が当時まだ日本では 無名に近かったスパイク・リーのドアップ写真であった雑誌です。 その「越境せよ!」の特集号では荒俣宏氏と オウム真理教の松本ちずお被告が対談していたのを思い出します。 もうその対談内容は忘れてしまいましたが。話がそれてしまいました。 あちら側とこちら側。ひょっとしたら 現代を生き抜く知恵というものがあるならば、それは「越境」することなく 境にとどまることなのではなかろうかとも感じます。ある種の矛盾を抱えた ままでそこにとどまること。「私」という存在が絶えず自意識などの 「他者性」と共存しているように。最近精神分裂病と「正常」の境にある 「ボーダー症候群」という症例が増加しているようですが、もしかしたら その症状は現代社会に適応する為の心理的策なのではなかろうかとも考えたり するのです。不謹慎かもしれませんが。
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Tue Aug 4 01:37:10 JST 1998
from dusk till dawn ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
ボーダーというメタファーを武器にしてさまざまな事象を解析していこうと試みるずっと前に、メキシコとアメリカの国境を憑かれたように車で動き回っていた時期があった。その頃の話。ある春の日、僕はいつものように地平線まで続く見晴らしのいい道を、アメリカ在住の女性とドライブしていた。その彼女は霊感が強く、一緒にいると僕も幽霊らしきものに遭遇するほどだった。空は小さな雲が気まぐれに浮かぶだけの快晴だった。風もほとんどなかったから、窓を少しだけ開けていた。車内に入り込む風の音だけが耳についた。その時何の気なしに、ふとバックミラーに目をやると、黒い大型バイクに黒ずくめの男が遠くの方にいるのが見えた。そこはとても見晴らしのいい場所だったから、他に目だつものは何もなかった。ちょっと目を離しているすきに、そのバイクは猛スピードで見る見るうちに近づいてきて、僕たちの車の後ろにぴったりとくっついた。僕は最初ぶつかるんじゃないかと思ったぐらいだった。バイクの男は顔も黒いマスク状のもので覆っていたので、その表情を読みとることはできなかった。車線や速度を変えると、そのバイクも同じように後ろについてくる。僕は反射的に思いっきり極端にスピードを落としさらに車線を変えてみた。すると、大型バイクは僕らの車の右側にゆっくりと並ぶようにして走った。バイクの音はなぜかまったくしなかった。しばらく並走してから、音もなく滑るようにスピードを上げてゆっくりと追い越していき、そのまま100メートルぐらい先の道の真ん中でふっと消えてしまった。同乗の女性は、急に胸をおさえ、小さな声で「お願い。車を止めて」と言った。それから路肩で休んでいる十数分の間に、その道を走る車やバイクは一台もなかった。
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Tue Aug 4 23:07:06 JST 1998
T.Miyata ( michaux@hotweb.or.jp )
昔、アメリカをグレイハウンドのバスでふらふら旅していた頃 メキシコとアメリカの国境の雰囲気に私も魅了されました。 リオグランデ川。ヌエボラレド、エルパソ、ティファナ。ヌエボラレドからエルパソ ヘ至るバス路線では砂漠の真ん中で検問があり、検問官がバスの乗客にパスポートを 見せるよう要求するのですが、私の乗っていたバスでは一組のヒスパニック系と思わ れる家族がバスから強制的に 降ろされて車に乗せられてどこかへ行ってしまいました。彼らは 自分の体よりも大きな荷物を各々背負っていましたが、やはり あの中には家財道具が入っていたのでしょうか。 エルパソは私の精神を落ち着かせ、数週間も滞在していた憶えが あります。泊まっていたユースホステルの相客が留学しにやってきたばかりの 香港系中国人で、「自分はこんなへんぴな所で学ぶ為にアメリカ に来たんではない」と毎晩のように国際電話を香港にかけて、泣き言を言っていたものです。 ところでメキシコの街を見物すると 「グアダルーペ」という名がついている通りが必ずあるような 気がしましたが、これは「グアダルーペの聖女」と関係が あるのでしょうか。具体的に「グアダルーペの聖女」がどういう 人物だったのか私は知らないのですが。
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Wed Aug 5 00:18:13 JST 1998
Bless Me, Ultima ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
DFからアカプルコまでのバスに乗っているときに、私も同じような経験をしました。どこかの国の中古であろうポンコツのバスは、メキシコの太陽を受けながらでこぼこの山道を走っていました。窓からそっと外を見ると車に引かれた牛が倒れていたりするような道です。車内には、鶏を生きたまま何羽も袋に詰めて運んでいるおばさんや、よく日に焼けている無口なおじさんらが10人以上乗っていたはずです。長い山道をやっと下りきり、アカプルコのダウンタウンにそろそろ到着するかというその時、急にバスが止められたかと思うと、どかどかと2〜3人の警官が乗り込んできて一人ずつ顔をのぞき込んだ後、ある男性を連れていってしまいました。バスはそれから程なくして、伊達政宗の密使、支倉常長ゆかりの街に着きました。もちろん私が覚えているわけではありませんが、そのバスの運転席の横にはきっと「グアダルーペの聖母」の写真が飾られていたはずです。ファロス的構造にからめ取られたラテンアメリカ社会の脱出口としての「聖母」。カトリックの聖母マリアと、メソ・アメリカ原住民の地母神トナンツィンとが、混血児たちの宗教的イメージのなかで合体して生まれた「グアダルーペの聖母」。『クレオール主義』の「父を忘却する」を参照するといいと思います。現在でもラテンアメリカの各地で聖母が出現するという話を、先日、名古屋市美術館のオクタビオ・パスについての講演で今福氏から聞いたばかりでした。
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Wed Aug 5 21:18:34 JST 1998
T.Miya ( michaux@hotweb.or.jp )
imuraさん、解説有り難うございました。「グアダルーペの聖母」とはある種の 文化混合の象徴だったのですね。文化混合のことから、エルパソからファレスに入り、街で見かけた 石造りの古そうなカトリックの教会のことを思い出しました。その日は日曜日で 教会では礼拝が行われており、私はクリスチャンではないのですが教会の寛容さ に甘えて末席にて礼拝に「参加」したのでした。ミサ曲が何故かパイプオルガン ではなくギターのような楽器で演奏されていて、なんとも「ラテン的」な音楽 の調べとともに礼拝が行われいたのです。長旅の疲れが癒されるような情景 でした。「父を忘却する」ですか。興味深い言葉ですね。先日平凡社ライブラリー の『砂漠の修道院』という本を読んだのですが、その中には「母から逃れる」 ために砂漠で修道院生活を送っているあるコプト修道士の話が語られていました。 「父を忘却する」という言葉からエディプス・コンプレックスとあじゃせコンプレックス のことを連想するのは安直かもしれませんね。生において初めて経験する社会としての 家族とそこからの脱出の模索。・・・読んでもいないのに勝手に想像力だけが 一人歩きしていきます。
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Wed Aug 5 23:06:05 JST 1998
Salvador Sanchez ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
「論座」の今福氏の文章を読みました。日本人なら日本のチームを応援するのが当然と思っている人とはあまり友達になりたくありませんが、これからはそういう人は減っていくんでしょうね。同様に、名古屋に住んでいるのならドラゴンズを応援するのが当然という風土も最初は非常に困惑させられました。野球のみが共有されたスポーツ文化であるということに問題があるのかも知れません。メキシカンボクサーをこよなく愛するような輩は、名古屋では当分受け入れられないのでしょう。しかし「どさんこ」からコンサドーレと命名した人のセンスはすごい! /チカニートの愛称をもつヘナロ・エルナンデスのタイトル・マッチを見ました。アメリカ国籍でありながら、名前をスペイン語読みにし、マウスピースをメキシコ国旗の色にデザインし、メキシコへの愛を公言してはばからないヘナロのような人は、実はボクシングの世界にはたくさんいます。チカーノがチカーノとして生きていける数少ない場のひとつが、ボクセオの世界ではないでしょうか。ジョー小泉さんが「チカーノとメキシカンとプエルトリカンの試合は興行的にうまくいく確率が高い」と、何の説明もなしに「チカーノ」という言葉を使っていてなぜだか嬉しかった。
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Thu Aug 6 23:10:13 JST 1998
井村俊義 ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
洋泉社に勤めている友達が吉本隆明の『定本 柳田国男論』(洋泉社、1995)を送ってくれた。「体液の論理」という「序」が抜群におもしろくて、その後の本編はいきなり『海上の道』の話から始まる。沖縄について調べている私にとってはもう「やめられない止まらない」といった感じで読み進めた。しばらくしてから本を閉じると、帯に「柳田国男の民俗学、その身体感覚の視覚化という特異性を鋭く考察した一冊」という惹句があることに気付いた。こんな喚起的なセリフを書けるのは誰だと思って名前を見ると、やはり「今福龍太」だった。/名古屋近辺にお住まいの方でたまに頭を使うのが好きな人はいませんか。カルチュラル・スタディーズをめぐるさまざまな事象について、一緒に考えていこうと思っています。どうぞ遠慮なく連絡してください。ちなみに研究会の名称は「D研」にしました(D?→×ドラゴンズ→?)。
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Fri Aug 7 23:45:12 JST 1998
working in the dark ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
高校野球を見なくなってからどれくらい経つだろう。僕が卒業した高校は、僕が在籍していたときに、夏は甲子園に出場し、冬は花園ラグビー場で準優勝するようなスポーツ校だった。クラスメートに、テレビを通して見たピッチャーやフランカーやフルバックがいて、彼らと机を並べながら勉強していた。他県からスポーツ留学している者も何人かいた。遅くなってからの校門には彼らを目当てにして待っている女子高生がたくさんおり、その横をすり抜けながら「スポーツをするやつはなぜもてるのか」などと考えているような奴はもてるわけもなく、悶々とした暗い高校時代を送った。生意気な話だが、高校を卒業し自分が高校野球に出られない年齢になると、まったく見なくなってしまったようだ。どこか特定の高校を応援しなくても、純粋にプレーそのものによって興奮できるものなのか。「美しい十代」がまだこんなにいるのだということを証明するために、彼らは毎年甲子園に集まってくるのか。各地を転々としていた頃にバイトをしていた千葉県の塾の教え子が、今年甲子園に出場する。生まれも育ちも思い入れもさまざまな僕は、たまたま現在愛知県に住んでいるが、どうやって高校野球と接すればいいのかまだよくわからないでいる。母校はここ数年、甲子園に出場していない。
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Sat Aug 8 22:40:04 JST 1998
la escalera caracol ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
帰省ラッシュが始まったとニュースは伝えている。生きている者も死んでしまった者も、みなが移動する季節のなかにいる。ノーマ・フィールドが言うように、お盆に加えて、広島と長崎の原爆投下の日、敗戦の日が、八月を「死者の月」にしているからである。さらに彼女は、海外旅行に行く者たちを皮肉を込めて「亡者」と呼ぶ。強迫観念に駆られて旅行をする抜け殻のような人々が、死者の月「八月」に彩りを添える。旅行者は、計画された場所に赴き、会うべき人々に会い、そして時期が来れば再びルーティーン(routine)に帰還する。自然に周期があるように、人間の行動にも周期があるのは当然だ。しかし、rootを求めてrouteを通り、その後再び同じrouteを通って戻ってくる律儀な「旅行者」とは違い、螺旋階段のように循環しながら再び同じ場所へとは戻らない(あるいは微妙にずれて戻ってくる)気ままな「旅人」には「帰る場所」はない。というよりも「帰る場所」は無数に存在する、と言った方がいいだろうか。どこに帰ろうと「ここ」にいようと、旅はできると旅人は確信している。僕がいるアパートの9部屋は、夜になってもどこにも明かりが灯らない。「帰省」しないのは僕だけのようだ。
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Sun Aug 9 14:44:20 JST 1998
the Haitian Hills ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
ちなみにメキシコの「死者の月」は11月で、2日は文字どおり「dia de muertos(死者の日)」という祭りが行われます。これも土着の信仰とカトリックの儀式が融合されたものだそうです。「文化混淆」の象徴である「グアダルーペの聖母」は、1531年12月9日に「アステカ」の母神トナンツィン(神の母)の神殿が建てられていたテペヤクの丘で、「インディオ」であるフアン・ディエゴの前に最初に出現し、「ナワトル語」で語りかけたことから始まるとされます。その後何度も出現し、1810年にはイダルゴ神父が掲げた旗印に描かれ、100年後にはサパタのソンブレロに「聖母」像が縫いつけられていました。今ではそのサパタも死者となってチアパスにて復活しています。「死者」は貴種流離譚にのって、必要に応じて「ニライ・カナイ」から何度でも召還されるのでしょうか。としたら今日もまたどこかで、「ゾンビ」のように、「かの人(死者)の眠りは徐かに覚めて行く」のでしょう・・。
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Sun Aug 9 16:34:04 JST 1998
sugita ( tara@sun-inet.or.jp )
大坂のIMIにいる友人からこのHPを教えてもらったのが約半年前。 メッセージボードに一度書き込ませてもらったこともあります。その後も時々のぞいていたので、数多くの刺激的な文章を積極的に書きこんでらっしゃる井村さんのお名前は知っていたはずなのです。 しかし、その方が、毎週金曜日、机を並べて同じ授業を受講しているクラスメイトの井村さんと同一人物だったということは、昨日井村さんからメイルをいただくまで気がつきませんでした。ネット上の出会いと生身の出会いが、お互い知らない間に同時進行していたなんて不思議です。 これから、また、こちらのボードにも顔を出させてもらうつもりですので、よろしくお願いします。それから、井村さん、今月末の「D研」参加させてもらいます。 楽しみにしていますよ。
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Sun Aug 9 21:06:06 JST 1998
T.Miya ( michaux@hotweb.or.jp )
井村さんのお話で地理的感覚のことを考えてしまいました。近代前の人間と 「現代人」における世界観の決定的な違いは地理的感覚なのではないかと。「現代」の 人間は自分の地理的位置を考える場合、丸い地球から俯瞰して位置的関係を推し量って いるのではないでしょうか。たいていの場合。ですがまだ人間が宇宙へ飛び出していな い時代には人間は自分の目で確認出来る範囲でしか地理的現実感覚を把握出来なかった のではないでしょうか。つまり地平線に囲まれた場所としての「私」の位置。 映像技術が発展して人間の知覚範囲は拡大し、際限がなくなってしまいました。 それはそれで「正しき認識」を得るという目的の為にはいいかもしれませんが そのかわり人間は想像力を失ったのではないでしょうか。つまりこの世の果てには 何があるのかという想像。地上は象の背中の上や亀の甲羅の上にあると考えたり この世の果てには滝があって海はそこで終わっているような・・・・。 何か現代の味気ない宇宙論に溜息をつかざるをえないのは私だけでしょうか?
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Mon Aug 10 12:12:59 JST 1998
anonymous words ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
作者から生み出される文章は、作者とどうやってつながりを保ちながら浮遊しているのでしょう。それらをいかようにつかまえるのも受け手の自由ですが、思わず「文章」をその作者の人格や風貌やアウラと結びつけてしまうのは俗人の悲しい性です。だから、作者と実際に邂逅する僥倖を得たときに受けるある次元でのイメージの地滑りを悲しく思ってしまうのも、俗物根性のなせる業なのでしょう。今福氏の場合は「日本人のオーラじゃない」という重要な点で、文章と何の違和感もありませんでした。ほっとしました。最初に文章を読ませていただいてから実際にお会いするまでに相当の時間を要したのは、作者という「マシーン」のアウラに接することで「文章への想像力の旅」を妨げたくなかったからですが、幸運にもそれは杞憂に終わったというわけです。僕の場合は、「文章と本人が一致しない」という杉田さんのような人がいてくれるのは、実はめっちゃ嬉しいんですけどね。/自分の目の届く範囲を自分の歩くスピードでしか見ることができなかったつい最近の時代まで、人々の想像力は「他者の視線」という足枷に邪魔されずに空を飛ぶように自由だった。人間は実に長い間そういう方法でしか世界を見ることができなかったのだから、人はそうやって思考を繰り返してきたのだった。車や列車や飛行機(もちろん通信機器の発達もそれに寄与している)によって「動く視線」を手に入れたとき、「移動」によってもたらされるスペクタクルは「風景」をパノラマ化していった。それによって「移動感覚」を効率的に自分の体内に埋め込むことができるようになったのと同時に、「自分という個人」が「いま」「ここ」にいるのだという感覚を強化していった・・・、というようなことを宮田さんの話から漠然と考えたのですが、どう思いますか?
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Mon Aug 10 15:01:31 JST 1998
惑星のネイティヴ ( tasano@quartz.ocn.ne.jp )
昨日、Jean Baudrillardの影響力ある論文、 Simulacra and Simulationを読んでいたらいきなりこんな文章に出会った。/"Simulation is no longer that of a territory, a referential being or a substance. It is the generation by method of a real without origin or reality: a hyperreal. The territory no longer precedes the map, nor survives it." /もはや現実の世界は、土地は、「地図」(映像などもそうでしょう)に先行することはない。「現実」なるものなど、もうどこにも残されていないのだ。Baudrillardはシニカルにこう言っている。しかし、このシュミレーションの時代にあって、なお、土地とのマテリアルな関わりのなかから、「世界」への想像力を鍛え直すための、思考と方法とことばを私たちはどのようにしたら手にすることができるのだろうか?これから、みなさんとともに考えてみたいと思います。
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Mon Aug 10 21:07:14 JST 1998
T.Miya ( michaux@hotweb.or.jp )
ロードムービーという映画の手法が結局は 「個」の問題を常に取り扱っているように思われます。 移動することにより「自己」を発見する。そこにある 距離感覚。「故郷」を離れ「異界」へ踏み込んだとき 複数の地点を結びつける線により自己がいた世界の位置を 平面的に把握出来る。交通手段の(通信・映像を含む)発達が やはり「異界」への路を開いたのだとすると、それは 自己のいる「故郷」の環境を相対化することになり、必然的に 環境の一部としての「個」ではなく、「環境」とは無関係と思われる 「個」を発見することになる。そうですね、「距離感覚」という ものは現代人にとって「個」の意識と密接に関わっているように 思われます。「ここ」という意識と「個」という意識。もし人間が遠い将来 距離というものを克服出来た時(物理的に)、「個」という意識も 変容していくようのではないでしょうか。神話において主人公が 何年も旅して辿り着いた場所へ私達が3分で行ける時代が来る時、 ひょっとしたら人間の文化における大変化が起こるかもしれません。・・・SF的で突飛ですね。話が 混乱してきますが、ここに「時」という概念も加えたくなります。太陽や時計の針の運動としての「時間」の概念とのかかわり について。つまり「ここで」ではなく、「いま、ここ」における 「個」について。
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Tue Aug 11 02:11:42 JST 1998
El Laberinto de la Soledad ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
今福先生・タサ野君と行けなかった「地ビールの店」に、友達と行きました。あのテーマパーク仕立ての「Parque Belgica」よりも料理がおいしい上に給仕する女性が洗練されていたと感じてしまったのは、シュミラークルに麻痺している僕のリアリティ感覚のせいだったのでしょうか。いやいや、「Parque Espana」のように人工的に意図された(何を?)空間だろうが、自然が意図した(何を?)景観の合間だろうが、そこに佇む僕の身体に与えるアウラの質は何も変わらない。「いま」「ここ」で、僕はニューメキシコの寂寞たる荒野に立つことさえできます。冗談ではなく! そういうことを僕は、例えばかつて臨済宗の妙心寺派(井村家は代々これ)のお坊さんの話から垣間見たりしました。その後、秋成や鏡花やポーや、その他ラテ・アメの多くの作家からも感化されました。そんなもんだから、「ボードリヤールくん、だから何なのよ」といつも分不相応に偉そうに思ってしまうのです。ボルヘスを使って「シュミレーション」を説明するボードリヤールよりも、ホルヘ・ルイス・ボルヘス自身の「物語」の方がはるかに過激にポストモダンを体現しているじゃないか。そうそう、僕は以前ここで「パスは膨大な書物の海を旅した」と書きましたが、先日の美術館での講演会で今福氏は「パスの所蔵していた書物は、彼の身体の一部だった」と指摘しました。人は書物を介してリアリティに触れられるだけでなく、書物自体のリアリティに成り代わることさえできる! まさしく、モノと同化できる「乱歩世界」だ。ヴェンダースの多用するロードムービーの視線も、カレン・テイ・ヤマシタの描き出す地軸がずれたようなストーリーも、ジュネの「泥棒日記」とマルコムXの言語世界を継承するようなジミー・サンティアゴ・バカの言語地獄的「刑務所文学」も、いずれも僕にとっての「リアリティ」の手触りをもたらす可能性を十分に持っています。そうか! 僕がいつの間にやら「SFから遠く離れて」しまったのはそれが理由だったのか! 宮田さんのおっしゃる「異界」は、「移動の時代」を生きる私たちの日常生活の「横糸」としてすでに編まれてしまっているのでしょうか。
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Tue Aug 11 12:26:23 JST 1998
ジロー ( tasano@quartz.ocn.ne.jp )
ディアスポラのなかに生き、社会の周縁に追いやられた、しばしば有色の人々による記述作品に命を吹き込む、決定的に重要なモチーフは家郷、家族、家系、それらを通じて現われる個人史である。離散作家は、想像力によって、他者による抑圧からの安全圏、アイデンティティを回復するための特権的なトポスとして、ひとつの土地を、ひとつの家を創出する。最近読んだ本にこんなことが書いてあったけど、どうでしょう?納得しつつ、あまりにもわかりやすい議論だと思いました。むしろ私は、起源の土地、帰るべき家を喪失しながら、しかも帰属だとかアイデンティティなどといった幻想の外へ潔く飛び出していこうとしている作家に興味があります。いつでも、どこにいても、自分が自分であることを強く意識させてくれるひとつの土地─その「ひとつ」のなかには複数の土地の記憶が刻み込まれ、無数の他者の声でざわめいている、多分に想像的でありながら、しかしあるリアリティーを持つ─そんな土地とともに生き、旅する術を私はかれらからまねびたい。/そういえば、私が知っている「日本」の友人は、一方で自らの日本人性という問題を徹底的に考えようとし、「米があるから俺は幸せだ」などと嬉しそうにいいながら、他方でよく私に向かって「俺がチカーノだ!俺のなかにアストランがある!」とまるで熱にうなされているようにして吠えるときがある。彼のなかでは、いつのまにか「日本人」であることと「チカーノ」であることが、「日本の家郷」(あっ、こんな言葉使ったら怒られるかな)と「アストラン」が矛盾なく雑居しはじめたのかもしれない。だから、彼を「日本」の友人などと呼ぶのはもうよそう。わが友人たる「日系バリオボーイ」よ、きみは元気かい?
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Tue Aug 11 13:53:58 JST 1998
Gunjiro ( Islanders@firstvoice.com )
こんにちは。ますます白熱する議論に、ときおりSan Fransiscoから涼しい風を送ろうと思います。この街でぼくが見たこと、聞いたこと、考えたこと、感じたことなどを、暇なときに、思いついたまま書き留めるだけなので、軽くよみ飛ばしてくださいね。/友人宅のバックポーチでしばしのあいだ読書。Lafcadio Hearn, Glimpses of Unfamilliar Japanをいま読んでいるところ。1週間ほど前にSeattleで買ったばかりなのに、すき間だらけの旅行鞄にほおり込んでおいたせいか、ぼろぼろになった本から目を上げると、子供たちが水遊びをしている姿が見えます。走り回ったり、飛び跳ねたりしているかれらの黒や褐色の肌のあいだに、虹がかかっています。今日は例外的にやや暖かいく、太陽が灰色の雲に覆われることが少なかった日でしたが、基本的にいまこちらは風も強く、とても寒いから長居はできません。どこへいっても、「子供は風の子」なんですね。部屋に戻ってからも、チリン、チリンという、洗濯紐にぶらさげた「フウリン」の音が真っ赤になった耳の奥でひびいているのが、心地いい。どこからか、サックスの演奏が聞こえてきます。ストリートで、だれかが歌っている、だれかが叫んでいる。いつものこと。では、また。
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Tue Aug 11 16:53:14 JST 1998
Japanese Barrio Boy ( imura@gc4.sp-net.ne.jp )
I resented not just that I would lose my old life in Oregon but that I was replaceable. 日系アメリカ人3世の作家、シンシア・カドハタのThe floating worldの一節だ。幼い頃に両親の離婚を経験し、作家への並々ならぬ希望を持ち、大学を中退し、最近はSF作品を手がけているカドハタの、1989年に発表された彼女の最初の作品がこのThe floating worldである。血のつながらない父と、その父と不仲な母、そしてまだ幼い兄弟らとの車での移動の途中で、主人公であるオリヴィアによって語られる言葉。「オレゴンでの慣れ親しんだ生活を失ってしまうことが嫌なのではなくて、私は別に私でなくてもいいんじゃないかと思うことが、どうしても受け入れられなかったのです」という独我論的問いは、拡散し続ける日系人社会が直面する「移動する家郷」における、複数の「わたし」からの根源的な問いかけだ。「複数の家郷」を持ちながら、「路上」からの視線を維持ししつつ、また「もう一つの家郷」を永遠に探し求める旅。そうした他者のざわめきである「わたし」が、もう一つの「わたし」とreplaceableであることに、はたして私たちは耐えられるのだろうか? それは共同性を考えるためのもう一つの視点。移動が個を強烈に意識させるのに、その進む先が知らず知らず古色蒼然とした「家郷」になっていないとは限らない。自分を徹底的に相対化ししつつ、「日本」と「アジア」と「西洋」を考え続けた漱石がたどった山道の入り口に、僕はいまやっとたどり着いたところだ。そこには遭難者の立て看板がたくさん立てられている・・。/グレッグ・タサノビッチ・ユルチッチが元気そうで安心しました。人間でも吠えることができるのならば、僕はいつまでも吠えていたい。僕は僕自身が拡散しているのだ!!
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Tue Aug 11 21:04:56 JST 1998
T.M ( michaux@hotweb.or.jp )
移動する過程において同一性を維持していると「思われる」 ものは「自己」でありましょうか。「自」と「他」の関係性によって 形作られる人間の 世界観において「鮮明」に「自己」が意識されるのは、やはり 「他」との関係を一からつくりはじめなければならない所、 つまり「異界」であろうかと思われます。今の私にとって 原風景というものは偶然にも井村さんが言われた「ニューメキシ コの荒野」であります。私自身が世界との関係を再認識もしくは 整理する必要があるとき、必ず私はアルバカーキーやサンタフェ 近郊の荒野を思い浮かべるのです。そこでの「異界」経験と 「個」の認識を追想するのは、現在の私が日常の環境に のみこまれているからかもしれません。では、どちらが「現実」 であるのか。ある側面から見れば人間が「個」である前提に立つ 以上、「個」を強く意識させる環境の方が「現実」という言葉 にふさわしいのかもしれません。そしてこの「個」というものに 時間軸を取り入れた場合、明らかに「ざわめく私」が存在して いるように思われます。「美しい日本の『ざわめく私』」 この「ざわめく私」が語る言葉は果たして支離滅裂なものなのだろうか とも考えたりします。「ざわめく私」の語る言葉の関係性を紡いだ 先に現れる「私」?
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Tue Aug 11 23:36:09 JST 1998
T.M ( michaux@hotweb.or.jp )
そして「距離感覚」について考えてみたのですが、それは ある種の「通過儀礼」のようにも思われます。列車に揺れや、雪国の 前のトンネルや、飛行機の機内食のような。もし、通過儀礼なしに 漫画のように「扉を開けるとそこはラサだった」などという世界に なったら相当とまどうような気がします。私だったら何も見なかった 振りをして扉を閉めてしまうかもしれません。
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Tue Aug 11 23:44:46 JST 1998
SHIN AKATSUKA ( tormenta@mbd.sphere.ne.jp )
こんにちは。 先日、友人達とハバナクラブを飲みながら、キューバのリズムの話から、サンテリアや、ヨルバの方向へと話題が移っていき、ブラジルのカンドンブレとの差異などについて話していました。 しかし、断片は拾えるものの、全体像がなかなか見えてこない。 キューバ、およびブラジルにおけるヨルバ系の神神の系譜とその位置についての参考となるものをどなたか、教えていただけないでしょうか。よろしくお願いします。
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Wed Aug 12 00:35:12 JST 1998
sugita ( tara@sun-inet.or.jp )
私たちの「存在」が、コトバに従属しコトバに頼らざるを得ないにもかかわらず、当のコトバには私たちの「存在」そのものすべてを汲み尽くす力が備わっていないという矛盾ゥゥァ」 文章を通して想像された作者は、もちろん作者本人とはズレたものになるだろう。では、実際に出会う機会に恵まれた「実物」の作者本人とは? 今、目の前にした作者「本(物)人」も、結局は私たちの頼りない知覚 ―それも人間の場合はコトバに侵食された知覚― によって取り入れられた外部の印象が織りなす綾のようなものに過ぎないだろうし (それも主として視覚と聴覚。嗅覚、触覚、味覚と進むに連れて、それはどんどん特別な関係となっていくけど)、その場で言葉を直に交わしたところで、作者「その人」には決して届きはしない。読者が文章から勝手に想像した作者と、実際に目の前にした「実物」の作者は、同じ権利で「リアル」であり「フィクショナル」な存在である。この両者をそのようなものとして改めて織り合わせ、当然そこには読者であるわたしも参画することで、「わたし(読者/実物)」と「あなた(作者/実物)」が織りなす動きある「世界」は新たな段階へ歩みを進める。何か楽しいな。
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Wed Aug 12 01:08:34 JST 1998
masaya fujimori ( fwip3265@mb.infoweb.ne.jp )
SHIN AKATSUKA さんのお問い合わせの件ですが、板垣真理子さんの「バイーア・ブラック」にカンドンブレ(+サンテリア?)について詳しく(?)かいてあるらしいです(この辺はもうお読みになってたりするのでしょうか)。あとはスペイン語等の文献になってしまうのかもしれません。
私事ですが、キューバンサルサを踊り始めて現在2年半で、はじめてキューバに行くことになるかもしれません。パラシオ・デ・ラ・サルサ(ハバナのディスコ)で本当に自由に踊ってみたい−キューバ人のダンスに触発されたい−ものです。どうも日本人のダンスは、クラブ等でも教わったことを踊るという形になりがちなので。実体のある身体が欲しい、とでもいうのでしょうか。
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Wed Aug 12 02:53:10 JST 1998
軍痔郎 ( gunjiro@abakwa.biglobe.ne.jp )
僕の場合の「距離感覚」は「私という痕跡の波紋」とでも言えるでしょうか。しかし「私」とは自明な存在と思われているけれども本当にそうなのか。認識できるか否かという前に、認識すべき対象そのものについて考えてみること。私も他者も、瞬間的に絶えず推移していく「痕跡」として跡付けられているだけではないのか。それでも、私を私として認識しているのならば、私という同一性を維持している「何かがある」はずだとも言えます。その根拠は、私の感覚や意識から来るのか。もっとも直接的な「触覚」にしても、重力がある限り人はいつでも「もの」に触れているのに普段はそのことを忘れているわけだし、目の前に見ているものは私から離れている限り錯覚だということもあり得る。意識や信念なんて、そういういい加減な知覚から構成されているのかも知れない。しかも、意識して触れるものは異物であるが、触れていることに慣れてしまえばそれはもう異物ではないように、見慣れている共同性を支えている「風景」が自分の身体に浸透してしまっているときに、遠いタオスの風景が私を私として実感させるのに役立つのは、まさしくそこが「異界」だからだ。私が私として生きるために、オリヴィアのように、慣れ親しんだものを捨てるのは構わない。しかし、私が私であるという感覚はいつも外から与えられ、そして時間が立てば感覚の中に埋没してしまうということの繰り返し・・。/サンテリーアこそ「文化混淆」の代名詞ですよね。アフリカの宗教分布は征服者がどこから入植してきたかによって変化するのですが、基本的にはイスラム教とキリスト教と部族宗教に別れていて、ヨルバの人々が住んでいるナイジェリア周辺はキリスト教の影響を受けているので、それがサンテリーアにも色濃く反映されている、ということまでは知っていた。それで、さっき「The dictionary of global culture」の「Santeria」や「orisha」の説明を読んでみました。表面的にはわかるんだけども実感としては伝わってこない。僕も是非知りたいですねえ。
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Wed Aug 12 03:54:38 JST 1998
Sandunguera ( habana@cuba.caribe.com(padre) )
8月11日、今日は特異日か? 一日に10通のメッセージが書き込まれる例はこれまでなかったはず。それらを読んで簡単にコメント。まずAKATSUKAくん、日本語で観光的な紹介以上の本は皆無です。カンドンブレに関心があれば、なによりもまず、Roger Bastideの傑作Candomble de Bahiaにあたるべし。原著はフランス語。ポルトガル語版もあります。キューバのアフリカ系憑霊宗教にかんしては、Fernando Ortiz と Lydia Cabreraの仕事が圧倒的。どちらの著作も膨大で、スペイン語で書かれていますが、Lydia Cabrera(彼女の死の直前にマイアミのリトル・ハバーナで会ったことがあります)の主著であるEl Monteは英語版もあるはず。サンテリーアの現在については、キューバの学者よりもニューヨークやマイアミの研究者たちの方が、素材に恵まれているため(いうまでもなくアフロキューバ系の宗教結社の多くは60年代以降、社会主義政権下において弾圧され亡命を余儀なくされた)英語での研究書に水準の高いものが多い。たとえば、Migene Gonzalez-WipplerのSanteria: The Religionなどは包括的研究。けれど、アフロアメリカの宗教と聖人のイコノグラフィーに関して私のもっとも愛読した本は、Robert Farris ThompsonのFlash of the Spiritです。この本はランダムハウスから出ている極めてポピュラーなものなので、いまでも簡単に入手できるでしょう。まずはこのあたりから読んでみては。それにしても、私もキューバの野外のディスコでのダンスが忘れられません。ロス・バン・バンの俗っぽさの魅力は、こうした開放的な空気の中でしかわからないような気もします。あの頃大当たりしていたフアン・ルイス・ゲーラですら、そこでは許せてしまえました。徹底した世俗的な快楽という点では、ブラジル東北部も同じ。バイーアのサルヴァドール郊外にあるSABOR DA TERRAというディスコは最高でした。なにより女性たちの踊る雰囲気、踊りを待つ雰囲気が。あの至福の時の記憶があるあいだは、不意のダンスパーティをやめるわけにはいきません。
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Wed Aug 12 18:44:04 JST 1998
下松 雅也 ( s-masa@magical3.egg.or.jp )
都市に生きる人たちは、古代の部族(あるいは現在の)と 何ら変わらないのではないか? という仮説をもとにそれを検証するドキュメンタリー番組を作ろう と思ってます。 でもそれは結局、下手な民族主義をあおるだけかなあ、と 思っています 何か意見を下さい
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Wed Aug 12 23:57:14 JST 1998
SHIN AKATSUKA ( tormenta@mbd.sphere.ne.jp )
fujimoriさん、Sandungueraさん、ありがとうございます。早速、さがしてみます。 ついさっき、サルサを踊りに行って帰ってきたところです。その店は、名古屋市の栄にあるんですが偶然にも今月末にキューバのダンサーを招いて、サンテリア、ヴゥードゥー、ルンバ、チャチャチャ等のワークショップを行うそうです。TANGIN FONG MATOSという現在東京在住の元キューバ国立現代舞踏団のダンサーが講師です。今から楽しみです。その店の名前はEL COCOといいます。
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Thu Aug 13 14:12:33 JST 1998
Fernando Imutiz ( gunjiro@nagoyafiesta.beergarden.com )
「グアダルーペの聖母」がカトリックの聖母と習合し独自の宗教となったように、「サンテリーア」の神々もキューバ独自のものとなったようです。神々は「オリチャ」と呼ばれ、オロフィという至高神がそれぞれの神に与えた能力により、オバタラ・エレグア・オグン・・などと呼ばれます。人間の中で特別な能力を付与された人を「サンテーロ」というそうですが、クランデーラみたいなものでしょうか。サンテーロが霊媒となるとき、憑依現象とともに音楽や踊りを伴った儀式が執り行われるそうです。サンテリーアと「アバクワ」の比較もおもしろそうですね。「不思議大好き」なので、思わず調べてしまいました。再びJapanese Barrioの世界に戻るとします。アーバントライブの称揚が民族意識を刺激するのだとしたら、それはどのようにしてでしょう。1992年のLAのように?
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Thu Aug 13 19:30:07 JST 1998
masaya fujimori ( fwip3265@mb.infoweb.ne.jp )
そういえば、ロス・バン・バンって独特ですよね。あの粘っこい、あるいはゆるやかなリズム。人をどこかに連れて行くんじゃなくて日常のままで、しかもパワーアップしていく音楽?今風のサルサ・ドゥーラ(ハード・キューバン・サルサ)のハイテンションとは対照的です。(わたしはサルサドゥーラ大好きですが)
AKATSUKAさん、タンヒンはいつも私がサルサを習ってる人です。天衣無縫なダンスで私の「いちおし」です。確かにサンテリアやハイチアン・ヴードゥーなんかも教えてますね。中国系キューバ人で日本で暮らしてる(そしてアフロダンス大好き)んだから考えてみるとなかなか面白いです。こちらにはもう一人キューバ人ダンサーがいるけど、こちらは黒人でもダンススタイルはニューヨークサルサなんかに近くて全然アフロじゃない、洗練志向の人です。
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Fri Aug 14 23:35:02 JST 1998
青柳白雲 ( rica@hakusan.gunjiro.com )
きょうこの晴れた日に「ある人」の引っ越しの手伝いをしました。その人は、ぼく以上に「引っ越しなれ」している人なので、ただいわれたとおりにしていればよかった。窓のそとにはあしたもあさっても日常をいきるだろう人々がいました。だれかの引っ越しを手伝っていると、かならず自分も引っ越ししたくなります。ひとところに2年半も居を構えるなんてひさしぶりだし、そろそろ荷物をまとめようかとまじめに思いました。ただし、ひとつだけみなさんにいっておきたいのは、引っ越しの「わくわく感」と旅の「こーよー感」がにていて、だから新しいとちにいきたいのではないということです。それが理由で引っ越しをしたいわけではないのです。じつはそういう理由もすこしあるけど、ほんとうの理由はもっとうしろむきの理由です。ぼくはおなじとちにずっといるとなぜか悲しくなります。とちが悲しくなります。旅は走馬燈です。引っ越しはある悲しい映画の終焉です。旅と引っ越しはかんかくのちがいであって、滞在の長短ではありません。悲しさを忘れるために、からだのおくそこでは次の映画を見ようとほっしています。まるでゲンザイ(現在/原罪)のような映画を。それがおなじ映画のつづきだとはしらずに。旅をするようにはいきられても、引っ越しをするようにはいきられない。ぼくはともだちよりもかならずさきに引っ越ししたい。いつも見送られていたい。エンドレス映画館のさいごの観客になりたくないのです。そうしたらもうつぎの映画を見れなくなってしまうようなきがするから。ただそれだけのことです。
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Sat Aug 15 14:35:32 JST 1998
イムラー ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
「どの異名(エテロニモ)までがおまえの文章だかわからない」という趣旨のお叱りを、Kさんという私のパトロンヌから受けました。こういうなんらかの「意見を述べるような場」は責任の所在を確かにすることが大事だ、という面もありますからね。僕にとっては過激な他者性によって苦しめられている自分の、ひとつの解消方法として文章を書くという意味合いが強いのですが、最低限imuraという文字はどこかに入れましょう。gunjiroとかricaじゃ、内輪でしか通じない暗号ですよね。これでいいですか、高野さん?
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Sat Aug 15 16:03:06 JST 1998
rosa ( rosa72@mijet.or.jp )
はじめまして。たまの休日に全く面識のないみなさんの多彩な会話を楽しませてもらっている者です。匿名性を完全に排除することもないとは思うのですが。そういう意味でもいろんなところからいろんな人がふらっと立ち寄る空気をこのカフェは漂わせていると思うのです。ただ、内輪受けというのはあまりいただけませんが。 あまりに涼しい東京です。気分だけは!とインドカレーに汗を流しています。みなさまの暮らす土地には、夏は訪れていますか?
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Sun Aug 16 14:02:39 JST 1998
Gary Soto ( imura@a summer life )
人の家に行くと必ず、失礼だとは思いつつも、書棚を片っ端から見てしまう。男だろうが女だろうが、どうしても見てしまう。その選書の仕方と並べ方の無数の組み合わせに、はからずも心が躍ってしまう。今福氏の書棚を眺めたときなどは、興奮し過ぎて、知らぬ間に眩暈の彼方に行ってしまったほどである。一方、ある女の子は「本の趣味をほめてくれるのが一番嬉しい」と言ってくれた。僕はそれに対してなぜか「ありがとう」と答えた。僕の蔵書はといえば、月に一度くらいのペースで本を売りに行き、一定量以上増やさないようにしている。それは、いつでも引っ越しできるようにしておくためと、部屋が狭くならないようにするためが主な目的だが、もっと実質的な理由は、目の前にあるとどうしても手に取ってしまい、ただでさえ拡散気味の自分をいざというときに自制できず、仕事(生活)にならないからである。しかも、読んだ本はすべて僕の「ここ」(頭ではなく身体)にあるという自信が少々あるのだ。さらに、オクタビオ・パスや山口(昌男)先生ら大御所とは違い、年齢を重ねるとともに少しずつ蔵書数を減らしていこうかと思っている。最終的には(人生の)、どこかの離島で毎日写経をしながら、好きな本を繰り返し読もうと思っているのだ。その、「僕の人生を凝縮したような数冊の本」を探すために、今日もなけなしの金をはたいて僕は本を買い、そして売っているのかも知れない。
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Mon Aug 17 16:44:01 JST 1998
Motohashi Gyunyu ( mhd01135@nifty.ne.jp )
以前、水元の区立プールで泳いでいたら、バングラディッシュ人に「日本人ですか?」と声をかけられた。「そうだよ」と応えると、「「イラン人かと思った」と言われてしまった。 これもまあ、胸毛のせいではあるが、葛飾区でもクレオールしてしまうのはいいなあ。
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Tue Aug 18 13:37:09 JST 1998
荒野のロマネスク ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
日本でもっとも「ブラジル人」が多く住んでいる県は、「いま」私が住んでいる愛知県だ。ということは、私たちはその気になれば実際にブラジルに赴かなくても、ブラジルの文化に触れられる環境にあるということか。なんと恵まれた環境! しかし「その気になれば」の動機を持つ人は、周りを見渡してもあまりに少ない。カーニバルやロナウドやアマゾンの国というイメージしかもたない人にとっては、「終わりなき日常」のなかにブラジルはなかなか浸透しようとしない。言葉が通じない異文化の人々とのインターフェイスに突然おかれることに対して、むしろ恐怖を感じる人の方が多いようだ。漠然とした恐怖を・・(実は「恐怖」は漠然としかやってこない。来年の今頃、地球は滅んでいると「不確かに」信じている人が本当にいることに私は驚く。それにしても「1999年7月、恐怖の大王空よりきたる」とは、すごいキャッチコピーだ)。漠然とした恐怖を極度に恐れ、それらを無条件に排斥しようとする心情が多くの不幸を生んできたことを、私たちは絶えず思い出さなければいけないだろう。クレオールとは、異言語・異文化の人々との接触によって生起するさまざまな出来事を客観的に分析する視点なのではない。私たち自身が異文化と異言語の集積体であると自覚し、ブラジルという仮称を地球の裏側において安心することを拒絶する発想のことだ。マスターが「エキゾティックは驚くほど近くにある」と処女作のプロローグに書いてから、すでに10年が経とうとしている。
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Tue Aug 18 19:03:06 JST 1998
sugita ( tara@sun-inet.or.jp )
日本語の場合、外来のものの有徴性は、その名称がカタカナ表記されることでいつまでも維持される。こうして、何百年も前に日本にやってきて、今や日本食を代表する天ぷらですら「正しく」はテンプラと表記され、外来のものであることが明示される。では、日本国籍を取得したとたん万葉仮名のような漢字で表記されるようになる外国人スポーツ選手の名前とは、いったい何なのだろうか。「外来人」の名前もテンプラ同様、カタカナ表記されその「外来性」が明示されるべきだと言っているのではない。ではなくて、それを取得したとたん漢字表記を許す/させる「日本国籍」とは、いったい何なのか、ということである。ぼくは、漢字仮名混じり表記が「日本文化」をおもしろいものにしていると考える者であるが、それにしても、この件に関しては何か鼻につく。みなさんは、いかが?
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Thu Aug 20 00:15:37 JST 1998
en busca de la vida ( imura@heterotexts.com )
スピードとかキロロとかのメンバーの名前って思いっきり「from南島」ですよね。僕の好きなボクシングの世界にも具志堅とか渡嘉敷とかいるし。友人のなかには台湾から来た陳さんや劉さんもいる。確かにサッカーの「呂比須」ってあんた、スタルヒンの時代じゃないんだからもう少しなんとかなんないのかな。「露ペ巣」じゃ変か。ロシア人みたいかな。そして「井村」という名前はどこにでもありそうで、実は「東国」には非常に少ない。実に「名前は語る」ですね。さらに、塾の先生などを長い間やっていると「そんな奇抜な名前ありですかい?!」というような「悪魔くん」レベルの名前にたまに出会う。「テンプラ」は「天麩羅」の方がかっこいいな。ホセを「穂瀬」、ゴンサレスを「権砂麗須」のようにして「美しければ許される!」ってわけじゃないか。アメリカに渡った日本人が突然「シゲオ・ナガシマ」のように書くのも鼻につく。
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Thu Aug 20 15:22:42 JST 1998
Toshiyoshi IMURA ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
NYでぶらぶらしている頃(人生の大半はぶらぶらしているのだが)、クイーンズの街の片隅でバスケットをしている黒人の子供たちの横を通り過ぎようとしたときに、「Hey!そこのブルース・リー!」と言われたことがある。今より10キロ痩せていた上に、彼と同じような髪型をしていたからだろう(もちろん大好きなブルース・リーを意識していたのだが)。他人が僕をどこの国の人間だと誤解しても全然構わないように、僕も他人を誤解する自由を持っている。でも、彼らが日本語を理解しないように僕も地球上の大半の言語を解さないという発想は、日本語ならばわかりあえるという安易な考えを生むおそれがある。僕は時にタイワニーズになり、ブルース・リーにさえなる自由を持っているが、一方「外国語」を誤解し「日本語」を誤解し、自分の発した言葉にさえ戸惑う存在なのだ。人は勝手に作り上げた「他者の幻想」を、それ自体よく解明されていない言語によって、無意識に誤解しながらわかりあっているだけなのだろうか。
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Fri Aug 21 21:02:12 JST 1998
アルトマン ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
今年は高校野球の観戦者数が増えてるそうですね。「高校野球を見ない」と以前ここで書いたのに、昨日と今日の「横浜高校」の試合をはずみで見てしまった!こんな真面目に見たのは本当に久しぶりのことです。巨人の「メイク・ミラクル」なんて信じないけど、取られたら取り返しながらの延長17回とか、完璧におさえられていたのに最後の2回で6点差をひっくり返すとか、実に楽しませてもらいました。明日の決勝戦も「はずみで」見てしまいそうだ。しかしただ喜んでいるだけではカフェ・クレオールらしくないので、ちょっとだけ考えてみますと・・。まず、観戦している人は母校ならもちろん、そうでない人も自分の住んでいる県や近い県、あるいはそれ以外の理由でどちらかのチームを「無意識」に応援しているのではないでしょうか。しかも毎日見ているような人は自然と選手の名前を覚えてしまい、ますます親近感を持ってしまう。そこに、一度限りのドラマが各選手に付加されることで、各人の人生に「無意識」に取り込まれてゆく。さらにテレビから流れてくる応援の音や、独特な声のNHKのアナウンサーと大したこと言ってない解説者との会話、すべてが懐かしいサウンド・スケープとして「自然と」立ち上がってくる。お涙ちょうだいも高校野球にはふさわしい。清原が泣いてもしらけるだけだし。アイドルやヒーローを自ら生み出しつつ、見てみたいという本能も人間にはあるのかもしれない。う〜ん、高校野球も深いぜ!
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Sat Aug 22 09:00:09 JST 1998
T.M ( michaux@hotweb.or.jp )
言葉とは「超個人的」自己表現であるように思われ、同一言語を話す人間の間でも 「誤読」や「誤解」が生じてしまう。言葉は常に人間とは別のところで 「運動」「生成」していると考えることが出来るのではないでしょうか。 「音」「文字」「意味」が各人に働きかけ、各人も言葉に働きかける。 だが言葉は「私」でもなく「あなた」でもない。まして翻訳という作業がどこまで「翻訳」で ありえるのか。翻訳とは常に「超訳」なのではないでしょうか。書いた 本人でさえ気がついていない無意識の言葉の選択まで説明して翻訳できない ように。昔モロッコをふらふらしていた頃、子供達に「ジャッキー・チェン!」 と呼びかけられて、微笑みながら私はファイティングポーズをとったのだが、 彼らは私の行為をどのように「翻訳」したのだろう。
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Sat Aug 22 19:15:40 JST 1998
ロッテの木樽 ( imura@tropic.of.orange )
指のあいだから何かがこぼれ落ちてしまうような「言葉」を使うことでしか、私たちは思考し伝達することができないのでしょうか。そもそも、ある「ものごと」が「言葉」によって他者に伝えられるとはどういうことなのでしょう。伝えられているものは「言葉」が介在して初めてその存在を確かめることができるのであって、それがいったい何なのかはそれを伝える人にしかわからない。しかしその人も「言葉」を介して理解しているのであれば、その人も誤解していることになります。一回性において起こったある感覚を、共有化されたある「言葉」に乗せた時点で、はらはらとこぼれおちてゆくものが確かにあるようです。「言葉」が「言葉の論理」にのっとって伝えている内容に、私たちはだまされているのかも知れませんね。漠然とした世界のなかからある視点によって画定され名称化された事物は、それを名指した人によって初めて(その人のために)存在することができるのですが、それはその人の存在の証であるというだけで、名称化された事物が他の人とのあいだの共通の認識として使用されるには大きな飛躍があるような気がします。実際には、すでに名指されたものをせっせと覚えていくという作業の過程で、「名指され方」と「ものの見方」と「考え方」をも習得しているんでしょうけどね。それを「文化」と呼ぶのでしょうか。よし自分が見るように世界を見ることができても、他者と共有するための「言葉」がないのなら僕は耐えられないなあ。天才じゃなくてよかった。
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Sat Aug 22 21:13:25 JST 1998
T.M ( michaux@hotweb.or.jp )
ふと現代の日本で誤解なく「共有」されている言葉とは 意外と「バブル」や「巨悪」などといった抽象的な言葉 かもしれないなとも考えてしまいました。私が例えば 「ストーカー」という言葉を使ったら映画好きの人ならば タルコフスキーの『ストーカー』を思い出すかもしれませんし、 多くの人は世間を騒がしている「ストーカー現象」を連想 してしまうかもしれません。文化的な視点に立つと、アメリカの 西部の街フェニックス市は中国語で「鳳凰」と記述されるかと 記憶しているのですが(曖昧な記憶ですが) 、中国語を話す人と日本語を話す人 の間では「フェニックス市」に対する印象が異なってしまうかも しれません。一つの言葉の背景には多くのイメージが人それぞれに まとわりついていて、そのイメージとは「文化」や「生活」により 影響を受けるのではなかろうかとも思います。共有出来る言葉とは 少なからず、複数の人達の間で共通の体験があり、その体験による 共通のイメージが醸成されている言葉のような気がします。そして 「クニ」的な文化を越えた形で共有できる言葉の糸口となる ものは良くも悪くも「マクドナルド」や「マイケル・ジャクソン」 「ブルース・リー」「タイタニック」などであろうかと軽率な ことを考えてみたりもするのです。しかしながら言葉について 語るというのは難しく緊張しますね。すでにメタローグと化して自 家撞着を引き起こしてはいないかと気をもみます。
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Sat Aug 22 23:25:16 JST 1998
pollo ( imura@mickey.com )
言葉についての話がどうしても抽象的な言い回しになってしまうのは仕方ありませんね。例えば「共有されたイメージ」という言葉自体は、私たちにそのような「架空の状況」の設定をなんとなく促すのですが、具体的な名称を持ち出すとどうしてもそこから人によってイメージが拡散してしまう。僕が「ディズニーランド」と言葉に出すときのその含意は、日本に住んでいるもの同士であっても、他の誰とも同じではあり得ないわけです。「浦安」か「ANAHEIM」かの違いから始まり、「うちの学校の先生がデートしてたのを見た」(浦安)とか、「並びながら「あなたはゲイですか?」と聞いて殴られた」(ANAHEIM)とかそういう僕の瑣末な体験まで含めてです。他者とどのくらいイメージが共有されているかどうかは言えるとしても、そこには無数のバージョンがあるわけですからあまり意味がない。さらに、世界中を席巻している「アメリカ文化」(その反面、アメリカは多くの地域で嫌われているということを「日本人」は知らない)どころか、人間が元来供えているはずの「身体感覚」ですら「文化」によって大きく異なるのではないでしょうか。もちろん同一の「文化」における時間的相違についてもそう言えるでしょう。では国境を越えて共通して獲得されるイメージはあるのか? 宗教や信念のレベル? たとえ僕がキリスト者であってもそれも確かめようがありませんけどね。
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Sun Aug 23 03:09:40 JST 1998
土屋 ( h-tutiya@sannet.ne.jp )
小牧市在住の大学院生です。突然書き込ませていただきます。18日の荒野のロマネスクさんに関して一言。愛知県は「ブラジル人」が多く、ブラジルの文化に触れる機会が多くありながらも、「『その気になれば』の動機を持つ人」があまりにも少ないと嘆いていらっしゃいます。私は中国史を勉強していてブラジルの文化に直接関心があるわけではありませんが、それでも愛知県とりわけ小牧市に住んでいるが故に一層「その気」にならざるをえない事態に遭遇しています。昨年十月、小牧市で日系ブラジル人のエルクラノ君(当時14歳)が、地元の日本人少年グループに殺害されました。「ブラジル人」だという理由で、それも性器までもを打ちのめす残忍さで。小牧市には多くの工場が立ち並び、バブル期の労働力不足からそれを補う目的で多くの日系ブラジル人を安価な労働力として導入しました。街に見知らぬ「外国人」が増えるとともに、まさに「漠然とした恐怖」が街を包み、「ブラジル人」を主語とした差別・包囲の言説があふれ出ました。こうしたなかでこの事件は起こるべくして起こったのです。センチメンタリズムに突き動かされつつ、この問題について考えていましたが、何ができるのかもわからず関心も風化しつつあった頃、エルクラノ君の父マリオさんが未だ懸命に抗議活動を継続していることを知り、またとある人からの刺激もあって、最近改めてこの問題について考えています。はたしていかにこの問題を考えればいいのか?
「移民」現象は、国籍と市民権が完全に重なり合う近代社会においては、権利を剥奪されざるを得ない「劣等市民」が、日常的に再生産される状況をもたらします。経済的な優位性を後ろ盾としたこうした「内」なる植民地主義を間近で目撃したとき、我々はいかにこうした問題に向き合えばいいのか?
国民国家へと吸収・統合されていくことを悲観しながらも、彼らの奪われた市民権の獲得を求める政治運動へと加わっていけばいいのだろうか?
荒野のロマネスクさんのおっしゃるように、クレオールという「日本人」や「ブラジル人」という枠組みを超え出て行く発想が必要となってくるでしょうが、ではこうしたアクチュアルな問題が提起された場で、われわれは一体どのように振る舞えばいいのか?
いずれにしても、一旦は「日本人」であるということを引き受けて、マリオさんに心から謝罪しなければならないような気がしてなりません。そしてあらためて「新たな社会運動」とでも言うべきものを模索していかなければならないように思われます。もし、この問題に関心をもってらっしゃる方がおられたら、ぜひお考えをお聞かせください。
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Sun Aug 23 09:46:12 JST 1998
Isao Matsuoka ( fwhz9173@mb.infoweb.ne.jp )
一昨日、ボリビアから帰って来ました。ボリビアを東西に縦断するツアーでしたので、高度感覚・空間感覚を大きく変容させられました。これについてはあらためて文章にしたいと思っています。
帰って、メッセージ・ボードを見ますと、土屋さんのブラジル人少年殺人事件についての書き込みに関心をかきたてられてました。(これについては、以前に井村さんが書かれていたと思います。)
ボリビアのスクレのメルカードで、コーヒーを飲んでいた時に感じたことと関連させて書きます。その時のことですが、少年3人がフォルクローレの演奏をしに入ってきました。兄弟なのだろうか、年かさの少年が太鼓をたたき、真ん中の年令の子がサンポーナ(笛)を吹き、年下の子が帽子を持って、お金を集めていました。
上手といえる演奏ではなかったのですが、「食べるための音楽」に感動している自分がありました。店のママさんが「ブラボー」と声をかけ、顔見知りと思われるおじさんが小銭を帽子に入れていました。また、食事をした人が残した残飯を店の人が合図をして、施しを求める人に分け与える光景も見かけました。
ポトシの町でも、メルカードに入ったのですが、どちらの市場の中にも、人々の<共存関係>が生きていると感じました。市場の中で、店を構える人、地べたで商いをする人、トイレの清掃をしてチップを取る人、施しを求める人たちが一つの場でつながりあい、支えあって生きている、そんな関係が印象的でした。
帰国して、いつも見慣れていた私の住む町の風景に違和感を持ちました。あまりにも町の人間関係が整序されているのです。大阪の近郊都市である町ですか、ボリビアで感じた共存関係はありません。近年、ホームレスの人々が目につくようになりましたが、日中にはその存在感はありません。見事に異質な人々が排除されているのが、日本の町の構造ではないでしょうか。
大阪でも少年グループによるホームレス殺人事件が頻発していまし、ブラジル人少年殺人事件も同じ構造の中で引き起こされたのではないかと想像します。
ボリビアに出発する前に読んだ新聞記事には、不況下で失業状態にあるブラジル人の救済の問題が、ブラジルの新聞で大きく取り上げられているとありました。また、ブラジルの日系人会に招聘された経験のある知人の新聞記者の話では、日系ブラジル人の若い人々の日本への流失が日系社会の崩壊を加速しているいるとのことです。ラパスでついたガイドさんが、サンタクルス在住の日系ボリビア人だったのですが、ボリビアでも同様に青年層の日本への出稼ぎによる日系ボリビア人社会の崩壊現象があるとのことでした。
土屋さんにお願いですが、この件について報道された内容等をメールで送っていただけませんでしょうか。現地で、何か市民運動の動きがあれば、それも教えてください。よろしくお願いします。(土屋さんの書き込みが文字化けを起こしていますので、カフェクレオールへメールで連絡され、文字化けを直してもらってください。私もよく直してもらっています。)
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Sun Aug 23 15:29:03 JST 1998
「クレオール礼賛」礼賛 ( imura@sanseishonoseinenchishikiso.com )
戦争機械であるノマドを排除するシステムこそが、国民国家の基本的な原理です。アメリカによる自分勝手な論理に基づく派手な戦争の裏では、「内なる植民地主義」による低強度な「戦争」が世界中の至る所で勃発しています。私たちはまずその種の「戦争」の存在を隠蔽(無視)しようとする卑屈な動きに抗していかなければなりません。「エルクラノくん殺害」のような凄惨な事件が、東海地方以外ではほとんど報道されていないという事実(逆に「日本人」が被害者であれば間違いなく必要以上に大騒ぎするであろう)こそが、国家原理に束縛されたマスコミの限界を露呈しています。では私たちはどうすればいいのか?センチメンタリズムに惑わされた一時的な感情によって他者に手をさしのべることも、またエスニック間でいつまでも反目し合うことも、さらには「俺たちはみな兄弟じゃないか!」と問題を単純化させることも、すべてが欺瞞のように感じます。クレオールという発想から導き出される交差する「新たな共同性」のあり方を、私たちは想像さえできないでいるのではないでしょうか?「人種差別は存在しない」と言い切るブラジル人たちの生き方が、今まで以上に注目されるのはそんなときなのかも知れません。土屋さんのおっしゃる「新たな社会運動」について、さらに詳しくお聞きしたいと思います。謝謝。
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Tue Aug 25 00:43:37 JST 1998
Julio Cesar Chavez ( imura@the ultimate revenge.com )
WBCの中量級以下は、メキシカンとチカーノとタイ人のチャンピオンでほぼ独占されています。今回のバサン(メキシコ)も、ティファナとサンディエゴを自由に越境しながら練習しているし、アヤラ(アメリカ)は文字どおりの「チカーノ」でテキサスを本拠地にしています。僕にとっての「ボクシング批評」は、ボーダーを論ずる視点を獲得するための重要な一断面なんですよ。しかし、フツーにやったら(「ガードを上げろ」なんて毎回言うなよ、「ナ〜イスバディ!」の浜ちゃん)とてつもなく強いんだろうに、辰ちゃんの「ボクシング」に対する可能性を模索する姿勢には頭が下がります。スポーツにおいてこだわるべきものは勝負だけではない、ということをボクシングで証明するのは至難の業だというのに・。「自分のためだけにやってる」なんて彼に言わせてしまうのも、現代スポーツにおける観客のあり方を考えさせる・・。そしてあの「24時間テレビ」でのラストの「感動の大合唱」の後に繰り広げられる「殴り合いの流血戦」!! このミスマッチも実に意味深でよかった・・・。
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Tue Aug 25 03:58:28 JST 1998
土屋 ( h-tutiya@sannet.ne.jp )
私が書き込ませていただいたエルクラノ君殺害についての問題に早速いくつかのご意見をお寄せいただいたこと大変ありがたく存じます。Matsuokaさんがボリビアで感じ取られた〈共存関係〉のようなものは、たしかにいまの日本にはもはや存在しないのかもしれません。小牧市においても十年ほど前から、大規模な都市整備計画が進行し、道も住居も幾何学的に整然と配置された空間が形成されるとともに、都市部の中間階層が多くベッドタウンを求めて流入し、もはや「暗がり」もアジールも存在しない、無機的に均質化された街の景観を呈すようになってきています。そうした中では、もはや雑種性が混在する余地はありません。多くの日系ブラジル人はこうした状況下で匿名の権力によって監視・包囲される立場に立たされているような感があります。ではこのようななかで、いかに〈共存関係〉を求めていけばいいのでしょうか。これは日系ブラジル人にとっての問題であるばかりではありません。ストレス社会に生きるわれわれ自身の問題でもあるように思えます(この意味では暴行を加えた日本人少年グループも被害者か?)。この問題についての一つの指針としてマイノリティの抑圧された権利の獲得を目指す政治的運動を考えることができます。しかしながら、こうした運動も結局のところ「クレオール礼賛」礼賛さんがいう国民国家の「戦争機械であるノマドを排除するシステム」へと包摂されて、さらなる均質化を促進し、別の新たな「内なる敵」を生み出すだけではないかという疑問もまた抱かざるを得ません。では、どうすればいいのか?上に述べた匿名の権力の網の目を丹念に読み解いて解きほぐす、それを公共の場でアピールする、こうした運動がたとえそれがセンチメンタリズムにつき動かされていようとも必要となってくるように思われます。こうした過程の中で、「クレオール礼賛」礼賛さんがおっしゃる「クレオールという発想から導き出される交差する『新たな共同性』のあり方」も見えてくるのではないでしょうか。なお、この事件に関しては、以下のH.P.で若干紹介されてますので、参考にしてください。 「海をわたって−外国籍児童生徒の教育を考えるページ−」 http://www.ztv.ne.jp/junko-f/index.html
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Wed Aug 26 01:00:10 JST 1998
Toshi ( imura@araiyumi.com )
帰省から戻ってきた人々を見て思い出したこと/むかしむかし、東京の郊外に移り住んだ井村家の家の近くには、手鞠をついた赤い服を着た女の子の「幽霊」が出るという交差点と、そこから程近い山のなかに、精神病患者を収容しているといううわさの「病院」がふもとからかすかにその姿を見せていた。「決してあそこに近づいてはいけない」というのが僕ら子供たちの暗黙の了解だった。その山奥には「防空壕」跡を利用して住んでいる「浮浪者」がいた。友達のなかには「ハーフ」や身体障害者の子供もいて、彼らが当たり前の「風景」の一部を形成していた。そんな場所から引っ越して何年たってからだろうか。「大人」になった僕は、ある日曜日にその地を訪れてみたいとふと思ったのだった。/もちろんそこには何もなかった。子供たちの姿は見えず、空気はじっと止まっていた。何の音も聞こえなかった。家だけが変わらずあった。そして、思い出の中心にある「土地」までやっとたどり着いたとき、そこはすでに整地されている状態だったことをその時初めて知った。それでも、まっさらな土地に立ってみる。そんな時人は何を考えればいいのか。すると、ベランダからならはっきりと見えた「中央フリーフェイ(場所は八王子ですし・・)」がわずかに見えた。子供の頃、学校で嫌なことがあるとベランダから「高速道路」をいつまでも眺めていたものだった。僕はそれを見ながら「いま」何を思い出せばいいのだろう。/誰にでも帰ろうとする場所があり、しかし帰れない人もいる。だが、帰る場所などどこにあるのだろう。そもそも人はなぜ帰りたがるのか。「故郷」とはいったい何か?
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Wed Aug 26 12:06:44 JST 1998
Kao ( tasano@quartz.ocn.ne.jp )
8月14日、San Jose Repertory Theatre。Bay Area Asian American Jazzのリーダー的存在にして、ベーシスト Mark Izuによる作曲/構成、"Last Dance"を聴きにいった。この作品、"Last Dance"は日系移民のパイオニアである一世、そして第二次世界大戦中、強制収容された多くの二世たちにささげられた作品である。1942年、パールハーバー襲撃直後、ルーズベルト大統領の行政命令9066によって、約12万人の日系人(そのなかには「アメリカ市民」である多くの日系二世が含まれていた)がアメリカ合衆国の砂漠地帯へと強制収容された。かれらは土地を失い、しばしば財産を奪われ、それだけでなく、言葉を失い(日本語の使用は禁止されていた)、そして家族の絆を失った。日系人強制収容については、すでに多くの論者によって、それが国家による人種主義的暴力であったことが指摘されている。(戦時中、ドイツ系移民、イタリア系移民は強制収容されなかった。)この点については、特にRonald Takaki, Yuji Ichioka, Roger Danielsといった歴史学者や社会学者による精力的な研究に負うところは大きい。しかし、ある民族が被った苦難の経験を他の民族が被ったそれに結び付けることに(サイードがこんなことを言っていたはずだ)、こうした社会科学的な研究は十分成功しているとはいえるのだろうか。"Last Dance"は、ジャズと語りによって日系人の経験を合衆国における、いわゆる他のマイノリティの経験へと接続させようという意欲的な試みだった。Mark率いるAsian American Jazz Orchestraによる演奏を背景に、George Yoshidaが自らの強制収容の経験を様々なダンスの記憶とともに語り、ときに踊る。強制収容所=Campでは、いつかそこから解放される日を願って、いわば儀礼的に「最後のダンス」というパーティーが何度も催されていたという。しかし、Georgeの語りは徐々に過去の回想から未来への希望へと変化してゆく。Georgeは踊り続ける。チャイニーズ、黒人、チカーノ、ハワイアンたちとともに…。未来のダンスホールでは、あらゆる差異を乗り越えて人々が集まり、共に踊る。そして、"Last Dance"は、汀で遊ぶ混血の少年の映像と共に幕を閉じる。日系人強制収容所としてのCampを単にノスタルジーの対象にするのではなく、ダンスをする身体を媒介にしてCampをノンエセンシャルなトポスへと変容させてゆくMarkの演奏とGeorgeの語りにぼくは強く心を打たれた。ちなみに、George Yoshidaは"Reminiscing in Swingtime"という日系人とジャズの歴史についての画期的な研究書の著者として知られている。興味のある人はぜひ読んでみてほしい。
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Wed Aug 26 23:05:11 JST 1998
masaya fujimori ( fwip3265@mb.infoweb.ne.jp )
9/13からハバナでダンス漬けの6日間をすごすことになり、向こうのディスコの様子を聞いてみたのですが、どうも有名ディスコにいるキューバ人女性はお金目当てで外国人に接してくる人が多いらしく(ヒネテーラ−売春婦―も多い)、どう接していいのか(踊っていいのか)戸惑います。踊ってても相手が純粋に楽しいのか分からなくなる気もするし。そもそも有名ディスコは外国人向けで、キューバ人の給料ではまず入れないらしいです。やっぱり経済格差があると話がややこしくなりますねえ。まあ純粋にダンスだけで向こうの子を楽しませられるか分からないし、本場の子と踊れれば飲み物代+入場料の一部ぐらいは全然OKという考え方もあると思うんですけどね(うーんわたしもそうするかも)。
キューバがテーマのメーリングリストではこんな返事もありました。「でも、ダンスを純粋に楽しみたいのならば、キューバ人が聴きに行くライブにぜひ行って下さい。そこでみるキューバ人カップル(若い人から老人までそれぞれ)のダンスはすばらしいです。ダンスを、音楽を、その時の生を楽しむ官能的なものです」確かにダンスってこういうもんでしょうね。
しかし一方で(日本では?)実際のダンスにはいろいろあって、単なるスポーツ(というとマスターにおこられそう)として踊られることもあるし、単なるアクロバットになることも、そしてもちろん疑似恋愛になるときも、本当の恋愛そのものになることもあります。前述のディスコでは単なる接待としてのダンスもあったりするんですかね(まああんまり考えすぎるのはよくないか)。
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Thu Aug 27 01:46:41 JST 1998
Shostakovich ( imura@symphony.no.5 in D minor,op47.com )
規律化された「不自由な身体」から覚醒するためのいくつかの抜け道。「踊り続けること」によって内面の野生が首をもたげていくときの声に僕は耳を傾ける。息をひそめて。Campで踊り続ける「日本人」の身体は一瞬だけ破砕し幻覚を見た。日本人という「桎梏」とアメリカ人という「足枷」との間隙をすり抜ける。しかし人は誰もそこで永遠に踊り続けることはできない。Camp。「不自由な身体」は「ダンスを自己目的化した身体」へと螺旋階段のように「求心化」するとともに「拡散」する。やがて精神が身体と限りなく同一化した瞬間、身体は羊水に漂うひとつのノスタルジーになる。Cuba。/オーケストラによるショスタコーヴィチ(愛知芸術劇場)と、ブラジル人演奏によるボサノバ(Casa de Samba)を続けて聞くという貴重な体験をしました。うちに帰ってからはThe Goldberg Variations(by Glenn Gould)を誤って聞いてしまい頭が混乱しているので、感想はまた今度(杉田さんへ・)。
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Thu Aug 27 15:55:40 JST 1998
sugi ( tara@sun-inet.or.jp )
ずっと前に「朝生」で「在日」特集みたいなのをやっていて、そのとき韓国人のたしか金両基(キム・ヤンギ}さんだったと思うけど、台湾の評論家の金さんが自分の名前をキンと日本式に発音しているのに対して、それは解せないと指摘していた。母語の「正しい」音声によってはじめて自分のアイデンティティは同定し得る、という主張だったと思う。当の金さんは、「いまは日本にいるからキンなのです」と軽く受け流していた。人の名前が、その存在と深く結びついた「言霊」のようなものであるとしたら、その「言霊」は音声に宿っているのか、それとも文字に宿っているのか、あるいはその両方か?近代以降のアイデンティティ形成(民族のものであれ個人のものであれ)は、「透明な音声」によって逆照射される「存在」の神話にかけてきた面があると思う。こうして「透明」なハングルは漢字を蹴散らした。金さんはキムさんになった。でも、もう少し「文字」を許容してみるのもいいかもしれない。広州のカラオケバーで飲んだくれていたとき、連れの女性が「サンティエン!サンティエン!」と呼ぶのを聞いた。それがぼくの名前だとわかったときの新鮮な驚きとくすぐったい違和感。漢字によって媒介されたもう一つの名前。それまでは知らなかったけど、ぼくサンティエン・チョンでもあったのだった。ブルース・リー、ジャッキー・チェン、サンティエン・チョン、、、、どうです、悪くないでしょ?更けていく広州の夜、小姐の「サンティエン・コール」を受けながら「ワインレッドの心」(なぜか非常にうけた曲)を熱唱する杉田正は、しかし、またの名を「ヨッパライ」というのだった。
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Fri Aug 28 00:44:50 JST 1998
クレゾール主義 ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
身体の動きが最高度に流麗に見えたときに、最高にエフェクティヴな効果を引き出せるのがスポーツ(武道)の極意だ。それは「まるでダンスのように」という比喩を使ってもいいくらいの、「勝負」とは異次元の世界である。僕はその奥伝をどうしても知りたいと思い、かつて「合気道」を習っていたことがある。意志を身体に伝えながら、やがて意志を忘却し、身体自身が身体に対して随意になるというかぐわしい瞬間は、「身体が身体自身を考えられるか」というあらゆる分野に遍在する究極的な問いの達成でもある。脳が脳について考える、絵画が絵画について考える、文章が文章について考える。アルトーがゴッホを論じた文章はその問いを自在に活写した稀有な例だろう。「狂気」と他者から形容されたとき初めて「私は私について考える」ことができるのかも知れない。
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Sat Aug 29 00:28:53 JST 1998
Mao Zedong ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
「日琉同祖論」を意図的に構築した元凶とされる伊波普猷について、外間守善は『沖縄歴史物語』の解説を借りてこう書いている。「伊波は、基本的には日本という民族国家の中に沖縄が帰ることは歴史的必然である、と考えていた」。「マニフェスト・デスティニー」でも「大東亜共栄圏」でも柳田の「南島イデオロギー」でもいいが、「歴史的必然」を捏造するためにどれだけの要素が選択され排除されてきたかについて思いを致さなければならない。「歴史的必然」に潜む強烈な政治性は、漢字ナショナリズムのような粗雑な議論から、国学、民俗学、文学などさまざまなレベルで、それは底流としてある。「透明な文字」を「透明な音声」によって語ることがもしもできたなら、私たちは語る動機を失ってしまうのではないかと思うほどである。だからこそ、何が政治的なのか否かを軽率に判断し「審美主義」と切り捨ててしまうような発想法こそを、私たちは批判し続けなければならない。/アメリカで「トウシ-・イムーリー」と呼ばれざるを得なかった僕は、タイで「ラタナポン・チャナ・ポーパオイン・セーンソー・プルンチット・シリワット」のような名前のタイ人のフルネームを、結局最後まで言うことができなかった。
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Sun Aug 30 00:47:10 JST 1998
倭寇大学 ( imura@gc4.so-net.ne.jp )
こうやって毎日何かを書けるのも、子供の頃、体が弱くて本も読めずに寝込んでいることが多く、白昼夢のさなかの空想癖が習慣になってしまったことが影響しているのかも知れない。のちの活字中毒はその反動だが、活字がなくても「あっちの世界」で一人で楽しむ癖はなかなか直らなかった。どうしても妄想癖を直したくて、長い間「座禅」を自分に課していた時期もあった。しかし、逆に妄想と邪念に没頭してしまうという「いけない状態」に陥っていることにやがて気付いた。そこで、邪念を捨て去るために般若心経を唱えたりもした。アパート(東小金井だった)の隣人は、僕のやかましい歌声と朗々とした般若心経の交錯に恐れをなして引っ越してしまった(本当はもっとやばい理由で追い出したのだが)。結局、僕がたどり着いた結論は、「文章を書く」ことで頭の中を整理しつつ邪念を捨て去ろうという当たり前のところに落ちついた。今でも、本を読む時間よりも書いている時間の方がはるかに充実できる。
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