以下が7月30日から9月02日までの意見交換です。
Saturday, July 31, 1999 at 00:48:34 (JST)
郷原
ここ数日「六月共同声明」をめぐってとある掲示板に書き込まれた
院生・学部生の意見をアップしました。www.geocities.co.jp/WallStreet/9468/
からログを読めるようにしてあります。そこでの議論は
http://www62.tcup.com/6216/lieu.htmlで続けられる予定です。
Thursday, August 05, 1999 at 13:12:00 (JST)
千葉慶 <keichiba@ma.neweb.ne.jp>
2回目の投稿になります。
本日、第二回目の集会があるのだそうですが、私は都合により出席できませんので、一言感じていることを申し上げたいと思ってメール致しました。
すでに「元号法制化」が国会を通って、20年近くなります。私の在席している大学
は国立大学なので、あらゆる文書は「平成○年」という表記が求められます。「元号」を記述しつづけることは「天皇の時間」を生きさせられると同義だと思います。しかし、このことに現在は「なれて」しまっているような状況が一方で存在してはいないでしょうか。(無論、すべての人がそうだとはいいません。私も年号は
「元号」をさけて「西暦」を便宜的に使っています。)
奇妙なことに、報道を見ても、私が出席した最近5月〜7月にかけてさまざまな場所で開催されたシンポジウムのいくつかにおいても、管見の限り、「元号法制化」の際のいきさつや、その現在も続く、「法制化」状況への批判も聞かれなかったように思われます。8月9日に「国家・国旗法制化」が行なわれる(いや、行なわれないに越したことはありませんが)後で、その状況に二十年先には「なれて」しまって特に云々しないようになる…なんてことにしてほしくないものです。
批判の力の持続性こそが求められている、あるいは常に批判を刻みつづけることが大事だと感じております。 千葉慶(千葉大学大学院・近現代歴史学専攻)
Monday, August 09, 1999 at 15:42:14 (JST)
時田 節 <butaneko@fa2.so-net.ne.jp>
世界の9月号でも石田さんがGUY DEBORDのLA SOCIETE DU SPECTACLE に触れてるので、
http://www-biol.univ-mrs.fr/~bech/d_spec/index.html にホムペが。
Monday, August 16, 1999 at 23:28:27 (JST)
シネディエ <sinedie@wanadoo.fr>
「総括集会」へ向けた個人的アピール
わたしは「国家の象徴政治」そのものに全反対という立場は、
この立場を支持する・しない以前に
今だそれ自身のため言説を構築しきれていないと思います。
個人的感想を述べるなら、なぜ・なにに反対なのかが明確でないのです。
こういうことでわたしは、今回の反対が無意味であったといいたいのではありません。
逆にもし生産的なものがあったとすれば、
わたしたち自身が、なぜ、なにに対して反対なのか、
そして対案としていかなる社会を追求するか、
これを言い表す術を知らないということを
今回の運動は明らかにしてくれたということだといいたいのです。
それはわたしたち自身のサバルタン性、といいかえてもいいのではないかと思います。
反対の論拠として、いわゆる「不幸な歴史」を引用するのは依然可能です。
日の丸・君が代への戦後のグラスルーツの抵抗「感」は、
戦争の記憶を直接物語る語り(手)の存在と不可分だったと思います。
けれども、ことはそれではすまなくなってきている、というのが今日の問題と考えます。
もちろん記憶の義務sollenについて語って行かなくてはならないでしょうが、
それが風化して行くという事実seinは否定できません。
この事実を直視したとき、
戦争・あるいはファッショ化に対抗するための
民主的「国家」という制度的課題の問題を避けてとおることはできないでしょう。
それはいってみれば、これまでの「象徴政治」研究のあり方に根本的な問題提起をしてもいるのです。
主にマイノリティの側にたった研究を主としてきたこうした研究には、
民主主義「国家」の政治にいかにこれをインプットしていくかという態度が欠如していたのではないでしょうか。
最良の場合でも、それは運動論としてしか構想されず、制度的な国家論ではなかったと思われます。
しかもこうした理論的「発話」は多くの場合、まさに国家(もしくは社会的)機構たる大学の場から
なされていたわけです。
望むらくは、こうした反省にたった研究方法の再検討が多くの人びとによってなされんことを。
今回の運動の敗北は偶然やひとびとの悪意だけによるものではありません。
それは相矛盾する要求にこたえきれなかった「わたしたち」の立場の弱さに多く起因しています。
例えば法制化に反対なら反対で、新しい国旗・国歌の必要を提起することも可能でした。
もちろん「知的」な傾きのあるわたしたちはこういう不徹底な立場を毛嫌いするのを常としていますが、
さりとて「国家の象徴政治」に反対という立場を具体的に肉付けするのにそれほど成功したわけでもないでしょう。
実際理論的にすら、ナショナルなものなき社会の全面的構想に成功しているひとが
運動の参加者のなかにひとりでもいるとはわたしは思いません。
わたしは参加者個々の倫理的姿勢を問題にしているのではありません。
ただこういう実際的「欠如」の存在を認めることからしか新しい事態は始まらない、といいたいのです。
Monday, August 23, 1999 at 15:01:41 (JST)
T. Fujitani, Hyoduk LEE (李孝徳), Naoki Sakai, Lisa <lee@art.udn.ne.jp;tfujitani@popmail.ucsd.edu;ns32@cornell.edu;tfujitani@popmail.ucsd.edu>
8.24集会 <非・日本国居住者/非・日本国民>からのアピール
──「日の丸・君が代法制化」反対意思表明のトランス・ナショナルな継承にむけて──
今回の「日の丸・君が代法制化」に反対する運動は、法制化に直接の決定権をもつ日本在住の日本国民という枠をこえて賛同メール署名の内外にひろがりました。私たちは『六月声明』の本来呼びかけにあった、ナショナリズムや国家象徴の問題に深くかかわってきた知識人という立場にくわえ、非・日本国居住者および非・日本国民という立場から、この運動に参加してきました。
本来、日本の国民政治に参加できるのは日本国籍を保有する日本在住の者であるという原則に照らして考えるならば、日本国籍をもたない私たちや日本に居住しない私たちが、日本国内の日の丸・君が代の法制化阻止に関わることには矛盾があります。しかし、私たちは以下の理由で、この運動が日本在住の日本人を超えた運動であることが重要であると考えます。
第一に、「日の丸・君が代」は日本の植民地支配や軍事侵略の歴史と結びついており、その法制化が日本国内だけの問題ではないことはいうまでもありません。第二に、『六月声明』にも表明されていたように、象徴としての「日の丸・君が代」が「外部」を排除し、「内部」を抑圧することによって「国民」としての帰属意識や特権意識をつくりあげることもまた問題視されねばならないとすれば、「日の丸・君が代」の問題は日本国民、日本国内にとどまるものであってはならないと考えます。
日本国外で「日の丸・君が代の法制化反対」に賛同する人々のなかには、フランスの三色旗や合衆国の国民主義は良いが日本のナショナリズムは間違っているといった、単純な自国国民主義肯定の立場やオリエンタリスト的視点にたつ人々もいます。もちろん、植民地主義や軍事占領の個々の歴史を鑑みれば、すべてのナショナルなものを等しく否定すべきだという立場はとれません。だからといって、それぞれの自国国民主義を不問に付したまま「日の丸・君が代の法制化反対」を展開してよいのでしょうか。私たちは、「日の丸・君が代」に反対することがグローバルな意義をもつとすれば、それはそこに紡ぎ出された思想が国家や国民的なものに関する常識=イデオロギーを根底から揺り崩してゆくものであるからだと考えます。そして「日の丸・君が代」に反対することが、侵略と人権侵害の歴史をもつあらゆる国民国家のシンボルに異議を申し立てるような動きと連なってゆくものでなくてはならないと信じます。さらに私たちは、「日の丸・君が代」の法制化に反対するということは、国民国家の成立に伴って否応なくマイノリティー化された人々の権利と尊厳をいかに確立するか、という課題に直結しているものと考えます。
多数派の意思によってつねにマイノリティー化されてきた思想や心情がこれ以上侵されないよう、日本における法制度を人権や公共性への公正なアクセスを保障する、社会正義実現のための暫定的なレベルとして実現しなければならないことはいうまでもありません。それと同時に、このような公共性を日本という国民化された一空間を超えたトランスナショナルなものとしても想定したいと考えます。異なった場所、異なった課題を中心に組織された様々な運動と、「日の丸・君が代の法制化反対」の意思表明とを国境を越えて繋いで行くために、また、「日の丸・君が代の法制化反対」に賛同した日本在住者でなく、日本国籍保持者でもない人々とこれからも国境を越えて議論を継続できる環境をつくるために、採りうる方法はいくつもあるでしょう。私たちはその一つとして、現在、「世話人」の連絡網として使用されている共同声明賛同者の電子メールのアドレスを母体として、新たなメーリングリスト(ML)を立ち上げ、日本語に限定されない情報と意見の交換の場として継承・発展させてゆくことを提案したいと考えます。また、現在の賛同署名者が新たに設立されるMLにひきつづき参加するかどうか各自で判断できるよう、新しいMLに関する設立主旨と情報を、現在の賛同者メールアドレスのリストをつうじて、これを管理している「世話人」の責任において流していただくことを切に希望します。またその主旨はメール署名者以外の人々にも、様々なかたちで伝えて行きたいと考えます。
非・日本国居住者/非・国民 合衆国居住者共同署名者有志
T. Fujitani, Hyoduk LEE (李孝徳), Naoki Sakai, Lisa
Yoneyama
Thursday, August 26, 1999 at 17:16:37 (JST)
時田 節 <butaneko@fa2.so-net.ne.jp>
24日の集まりで、MLの設立が決まり、上の李さんらの提案は実現ということかと思います。
西谷さんが酒井さんの意見として、『日本人がテレビをあまりに長時間みることの影響』を考えようということを、最後近くで述べられたが、このことをみなさんはどう思われますか?
学校の授業や予備校の授業をテレビをポケッとみるように、ただボヤーと長時間受信してる生徒の多いこと。
考えることの方が楽しいのに、答えをコンビニでのように買えないからとムカツク生徒。検定の数学や理科の教科書もそうした生徒に迎合して、テレビのように見開き2ページ1テーマで、覚えることを強調し、考える機会を奪っています。
具体例として、高1の数学ではx^3-y^3(xの3乗引くyの3乗) の因数分解とx^3+y^3の因数分解が、なかよく両方公式を覚えようねと登場します。
一つを理解したら、残りはyを-yに置き換えるだけとか、x^n-y^nという一般化を試みるとか、頭を使う愉しみはどこにも。
学校のテレビ化という思考の真空地帯化も、政治で使われる言語の貧しさの大きな原因でしょう。
駒込さんからは、最近の国民国家研究を高校生も読めるようなテキストにする計画も紹介され、日の丸君が代の9月20日の岩波ブックレットも、そうした素材と期待してますが。
小森さんから、『個人の内心の自由』の問題がだされ、それを守るような象徴政治学会のようなものを構想する話しも鵜飼さんらからありました。
ブルジョア国家が個人の内心の自由に対して、介入してはいけないことを正確に述べたものに、教科書裁判の杉本判決文そのものがあったと思うが、署名者の中には憲法学者の樋口さんらもおられ、鵜飼提案のようなものが形になっていくといいですね。
Thursday, August 26, 1999 at 21:52:30 (JST)
西谷 修 <hq7o-nstn@asahi-net.or.jp>
時田さんの書き込みに引かれたわたしの発言が少しずれているのでひとこと。
酒井さんからの提案のひとつ(他にもあったから)は、「これだけテレビを見る国で、その政治的効果や意味を考えるまともなメディア研究がないのはおかしいから、その種の研究にも取り組むべきだ」ということです。これは鵜飼さんが「たとえば」として言われた「象徴政治学会」の提言とも関連するものでしょう。
Friday, August 27, 1999 at 17:03:36 (JST)
李孝徳 <lee@art.udn.ne.jp>
すでにご存知の方もいらっしゃるでしょうが、インターネットで以下のような記事を見つけました。
このような形で日米ガイドラインと国歌・国旗の法制化を結びつける「論理」がアメリカ合衆国に
おいてあるわけです。"healthy"だの"return
to a tradition"だの、信じられない言葉が数々出
てきますが、掲載しているのは朝日新聞と提携もしているThe New York Timesで、
決して右翼
の新聞だと言うわけではありません。
君が代・日の丸法制化が決して日本国内の問題でないことがここには端的に示されています。
**************************************************************
The
New York Times said in an editorial for Thursday, August 26:
Japan Discovers
Defense
Japan is slowly overcoming decades of
reticence about building and using
military forces. This change in attitude
carries important implications for
Asia and the United
States.
Despite defense spending of more than $40 billion a year,
Japan's military
strength remains limited. Tokyo relies mainly on U.S. power
and U.S. forces
based in Japan, South Korea and the Western Pacific to keep
its territory
and the surrounding region safe from hostile attack. Japan has
no nuclear
weapons of its own and no ability to transport its forces by air
or sea
beyond its immediate area. Its troops have not engaged in combat since
World
War II, and its Constitution bars waging war or threatening to use
military
force. Only in the past decade have Japanese forces taken part in
U.N.
peacekeeping operations, and then only in noncombat
activities.
But in recent months, Tokyo has shown a new willingness
to stand up to
North Korean bullying, deflect criticism from China and
involve itself in
regional defense arrangements. Japan's military alliance
with Washington
remains the centerpiece of its security planning. Wisely,
Tokyo and
Washington are moving to update the alliance to give Japan a more
explicit
military role in responding to regional crises, like tensions on the
Korean
Peninsula. As it expands its military vision, Tokyo must be careful to
avoid
being drawn into a destructive arms race with
China.
Japan's new assertiveness on defense is a healthy
development that should
not alarm other Asian countries. More than 50 years
after the end of World
War II, it is appropriate for Tokyo to cast off some
of the inhibitions
stemming from its earlier record of aggression and
conquest. Japan is now
committed to democracy and is unlikely to repeat that
violent history,
especially if it maintains a close partnership with the
United States.
Several Japanese moves in recent weeks illustrate
the new mood. These
include a joint naval training exercise with South Korea,
a new agreement to
collaborate with Washington on developing advanced missile
defenses, and
plans for building a Japanese spy satellite. Japanese political
leaders have
also begun to talk with greater directness about their country's
defense
needs. Meanwhile, serious discussion has begun about easing Japan's
strict
constitutional restrictions on using military force. Japan's
Parliament
recently voted to restore official status to the country's old
Rising Sun
flag and former national anthem. Both long predate World War II,
and for all
but a handful of right-wingers, their revival represents a return
to
tradition, not to imperial ambitions.
(後略)
Saturday, August 28, 1999 at 00:42:50 (JST)
石田英敬 <gm4h-isd@asahi-net.or.jp>
書き込みをする前に、李さんのN.Y. Times の引用見ました。本日(8.27)の「朝日」夕刊にも紹介されています。私たちも7.13に「外国人記者クラブ」会見をした狙いの一つはN.Yタイムズのような主要アメリカ紙に影響を与えたいというものでしたが、逆の答えが出ているみたいです。これは、まちがいなく日本の政界の動きを勢いづけます。日本の政界(それに世論も)はN.Y.Timesなどのアメリカの主要紙には決定的に弱いのです。アメリカの皆さんはぜひアメリカのメディアと世論に働きかけてください。
*
8.24 総括集会の冒頭で、議論の方向づけに関して行った発言要旨は以下のようなものです。私個人として「評価」や「感想」、それに、具体的な提案もありますが、とりあえずこの部分から書き込みます。
「総括」の方向性についての幾つかの提案
1 - 「<総括>の言説」からできるだけ自由に...
<私たちの運動>と言えるほどの均質なまとまりを<私たち>は持っていたわけではない。「知識人」「大学人」「院生」その他、それぞれの個人によって、運動への関わり方やタイミングも理由も異なっていた。それに、「総括」というのはまとめることだ。しかし、まとめると運動体はだいたい死ぬものだ。運動自体も単一なものとしてあったわけでもない。「総括のディスコース」から自由であることがまず求められるだろう。
これはもちろん「大衆運動」ではなかった。これは「政治運動」ですらなかった。私としては、私たちの各々が「政治」との関係を「発明」する運動だった、と考えてみたい。それは、もっと直接的に、私たちの各々が「政治を発明しなおす」契機になりえただろうか。
2 - 「情報を共有する」とは...
しかしとりあえずは、あのときはどうだったのか?と、「事実関係」を確認したいという人も多いだろう。「情報」を事後的にでも共有しようとすることはいいだろう。たとえ、だれもその時自分とは別の人が見たり行ったりしていたことに戻ることはできないとしても。とくに、「情報の共有問題」は、今回の「運動」の興味深い点のひとつだ。「情報」を、それぞれの人が運動のなかであるい時点で占めている位置をはなれて、「共有する」などということは本当に可能なのか?<情報>と<時点・場所・視点>の問題。といったことは、かなり本質的な問題の次元をつくっている。
3 - 幾つかの「反省」の力線について..
.
上記の情報の共有問題は、ネットの<内>vs<外>、 ナショナルな空間の<内部>vs<外部>、「思想問題」vs「政治行動」、「運動の代表性」vs「行動の偶発性」など、「運動」のいくつもの分割線として、「反省」の磁場をつくっている。それらの複雑に入り組んだ力線の交叉するどの場所に自分の位置があったかによって、それぞれの人の「感想」と「意見」を作り出している。私見によれば、インターネットによって結ばれた今回の運動体は、なによりも「モナドロジー」的性格を強く持っていたと思う。
4 - 「評価」について...
そこから、「評価」についての問題も出てくる。 「評価」基準は、運動が「敗北」であったかどうかではない。「思想的敗北」云々のステレオタイプも避けよう。何がじっさいに出来たのか、どのように、報道に働きかけ、そのコトバを変化させ、国会に働きかけ、政治家の沈黙を破らせ、「批判」勢力の言語と行動を変えられたかを、もっと精確・精密に検証すべきだ。私見からいえば「50日間の戦い」にしては、予想以上に多くのことができたと思う。
5 - 「展望」について...
運動の継続のあり方としては、テーマという視点からは、 1)「日の丸・君が代」問題の取り組みを継続する「単一テーマ」での継続、2)「公共性」や「民主主義」の危機を問う「一般テーマ」での継続という二つの方向があるだろうし、 3)「介入」の形態、スタイル、組織など、様々な提案が考えられる。
Sunday, August 29, 1999 at 08:55:58 (JST)
村山徹郎 <tecchan@pop11.odn.ne.jp>
<石田英敬さんから発信されたEメール「最終経過報告(8)」のお願いに則り、8月24日「六月声明」総括集会
にて私が発言した内容をここに御報告いたします。>
8月24日「六月声明」総括集会に於いて、閉会間際に私が発言した内容を、以下要点にかえて列挙いたします。
【1】大學人・研究者乃至その関係職務に従事する方々とは違えた立場の者(私=小市民一般)からの発言である。
【2】(インターナショナルをビジョンとし、それへと漸く到達する前段階に越えなくてはならない目的を達成する
方法として国家の構想があり、手段としてナショナリズムの仮設がそれへの求心的役割を担い、一方パブリックの
構想が人民の意見・考えを等値的に分散させ、ナショナリズム過多に歯止めを掛ける遠心的役割を担うモノ(つま
り自己目的化したナショナリズムの暴走に因って一元的国家を登場させ、その絶対主義・全体主義の下、人民を有
機的関係に縛り付け、その全体を以て国民と強制する野蛮なる反動を阻止する一大権力)であると管見していること
を前提として)
現在この国で起こり続けている戦前的指向を見るに、先ず第一に急がねばならないのがナショナリズムに対抗する
パブリックの構築だと思う。パブリックを構築することは、パブリックが、国家へと強引に牽き込もうとする今まさに
荒れ狂いつつある縦糸としてのナショナリズムを、結わえ押さえつける横糸としての大いなる機能・役割を果たす
モノだと確信する故、最重要課題の一つと認識する。
【3】パブリックを真に構築する原動力は、この会場に出席している皆様を始め「六月声明」に共同署名した大學人
・研究者乃至その関係職務に従事する方々を代表とする知識人であると確信する。
【4】今こそ、知識人であることを強く自覚していただき、括弧付きだとか照れ臭さを捨てて正々堂々と、社会や巷に
飛び出して来て知識人である旨の名乗りを確乎として挙げていただき、世間で吹聴されている誤謬論や偽証論をその実証性
・客観性・予測性に因って叩き壊し、尚かつ小市民一般を鍛えてパブリック構築への原動力となる教師となっていただきたい。
さもなければ、ナショナリズムを歓迎し推進する原動力と一般的に言われる、町内会の顔役/商店街のまとめ役/土地の名士
/農協の役員/企業の管理職等々を代表とする、いわゆる擬似インテリ或いは亜インテリと呼ばれる者に因るご高説に抗う能力
・方法に乏しい小市民一般は、ナショナリズムの渦に術もなく呑み込まれていくと危惧している。
【5】故に、知識人の活躍なくしては、パブリックを第一義とするナショナリズムに対抗する手段の構想は可能性が薄く、
このままでは、ますます危機感は強まり、果ては戦前・戦中の様な恐ろしい世の中になるのではと強く懸念する。
であるから、是非とも知識人の方々に社会に出るように、巷に飛び込んでいただけるよう、声を大にしてお願いいたしたい。以上
<如上が私の意見の梗概でした。>
--Get up! Stand up! Stand up for your rights!
Don't give up your fights! ***by Bob Marley
Monday, August 30, 1999 at 01:45:25 (JST)
角田幹夫 <sumita-m@wa2.so-net.ne.jp>
角田と申します。
この掲示板も含めて、関連のサイトが「アリアドネ」の「国内政治問題研究:「日の丸・君が代法制化」関連リソース」に
リンクされています。
李孝徳さんがNYTの社説を引用されていましたが、アメリカでのリアクションに対しては、
田岡俊次「日本脅威論を煽る米誌」(『AERA』99/8/30)のような、日本側からの開き直りのような
言説が出ていますね。