1999年7月19日から7月29日までの意見交換はこちらで読めます。
1999年7月30日から9月02日までの意見交換はこちらで読めます。
1999年9月03日から10月15日までの意見交換はこちらで読めます。
1999年10月16日から10月30日までの意見交換はこちらで読めます。
Friday, November 05, 1999 at 01:30:16 (JST)
中野敏男 <tnakano@fs.tufs.ac.jp>
東京外国語大学の岩崎稔と中野敏男です。
東京外国語大学の「独立百周年記念式典」における「日の丸掲揚」問題については、みなさんにご心配をおかけし、多くの方々の支援をいただくことになりました。ありがとうございます。本日(11月4日)、問題の「記念式典」が開催されましたので、わたしたちの抗議行動のことも含めて、大まかな顛末をご報告したいと思います。
すでに朝日新聞夕刊に小さな記事で報道されましたが、本日の記念式典では、結果として「日の丸掲揚」はなく、それに代わって、東京外国語大学の26専攻語に対応する31の国と地域の旗が壇上に並列的に並ぶことになりました。31の中には実は日の丸も入っているのですが、学長サイドの一応の説明としては、あくまで国旗としてではなく、主に留学生のために設置されている「日本専攻」を象徴するだけものとして理解されたいということでした。(日の丸があったのは31の旗の真ん中辺りでしたが、情報によればはじめはそこにはなく、来賓の政務次官のクレームを受けて、ようやく中央に移動させたのだそうです。東京外国語大学としては、そのような位置づけだったと理解したいし、今後、大学内ではそのように主張できると思います。)そこで、わたしたちとしてはひとまずそれを了承し、準備していた抗議行動(実際に、40名ほどが参加したと思いますが、学長の式辞が始まった瞬間に「日の丸掲揚反対」のプラカードを掲げながら、みんなでこれ見よがしに退場するつもりでした)は取りやめて、それにより式典は「平穏」に終了しました。
この結果をどう見るか。もちろん、これは、ある不徹底さを残した「決着」であったことは間違いありません。たとえ横並びであったとはいえ、日の丸が「日本」を象徴するものとして持ち出されていることは明らかですし、これにより「国旗」は掲げられたのだと主張することも可能かもしれません。また、日の丸に限らず、そもそも「国語」と「国旗」の存在自体については、否定されていないじゃないかとも言えるかもしれません。しかし、わたしたちとしては、少なくとも日本の国立大学で日の丸が特権的な国旗として掲揚されなかったという点を、内外のみなさんの連帯の声に支えられた反対行動の、一定の「成果」だと考えたいと思っています。
もちろん最初は、特別に大きな日の丸が、大学の旗と並んで掲げられる予定になっていました。他の専攻語の国や地域の旗を全部持ち出すということが考えられるようになったのも最近のことで、あわてて外務省に問い合わせるなどして取りそろえたのだそうです。もしわたしたちが反対行動を起こしていなければ、しかもそれが、内外の声に支えられて、実際に記念式典に大きな混乱を呼ぶような広がりになっていなければ、日の丸は確実に当然のごとく掲揚されることになったはずです。少なくともそれは防げたのではないか。そして、26専攻語を制度の中にもつ「外国語」大学としては、これがぎりぎりの選択だったのではないかと思います。そこまでは押し戻した、また、ある程度の団結をすればそこまでは押し戻せる、とわたしたちは考えたいと思いますし、大学の同僚たちにも、そのように理解して少なくともそこからは決して後退させないようにしようと呼びかけています。これがどう展開していくかは、これからのことなのですから。
今日のことですから、このことが広く社会的にどのような意味をもつことになるのか、わたしたちにはまだ分かりません。さしあたり、「即位十周年」をめぐって、いろいろまた問題になるかもしれませんね。それについては、多くのみなさんのご意見をうかがいたいです。でも、これで少なくとも、もうどこでも日の丸を掲揚することが当然になったというわけではない、とわたしたちは主張したいと思います。わたしたちの抵抗の力は不十分なものですが、負けているわけではありません。甘いかもしれませんが、さしあたりそんなことで、とりあえずのご報告に代えたいと思います。今後ともよろしく。
Wednesday, November 10, 1999 at 00:34:56 (JST)
石田英敬 <gm4h-isd@asahi-net.or.jp>
意見交換の場としてのこのフォーラムに「掲示板」としての書き込みを行うことには、ためらいを感じますが、時期が時期だけに、例外的に以下のご案内を申し上げます。(石田英敬)
「日の丸・君が代の強制に反対する11/12市民集会」
今年8月、日の丸・君が代を国旗・国歌とする法律が、多くの市民が反対する中、自民・ 自由・公明の三党の強行により成立しました。そして今、地方自治体や教育現場では、日の丸・君が代の強制が始まっています。こうした中、11月12日午後には、東京都千代田区の国立劇場で、政府主催による天皇在位十周年記念式典が、夕刻には皇居二重橋前で民間団体主催による「天皇陛下御在位十年をお祝いする国民祭典」が開催されます。11月12日に向けて、全国各地では、さらに日の丸・君が代の強制が進むでしょう。私たちは、日の丸・君が代の強制に反対し、この日、日の丸を掲げず、君が代を歌わない市民がいる事を広くアピールするために、記念式典が開催される同時刻に、式典会場からすぐそばの社会文化会館で、集会を開催します。集会終了後には、デモ行進も予定しています。ぜひ、ご参加ください。
日時:11月12日午後2時〜3時30分
会場:社会文化会館3階会議室
東京都千代田区永田町1-8-1
地下鉄・永田町駅(半蔵門線・ 有楽町線)国会議事堂駅(丸の内線・千代田線)下車徒歩5分
発言:石田英敬さん(東京大学教授)ほか
《集会終了後、デモ行進を行います。》
主 催:日の丸・君が代の強制に反対する11/12市民集会実行委員会
連絡先:ピースネットニュース 電話 03(3813)6490
Friday, November 12, 1999 at 12:14:30 (JST)
坂本恵 <sakamoto@ads.fukushima-u.ac.jp>
福島大学の坂本恵です。
記念式典と今日の在位10周年での福島大学の対応についてご報告します。
1日におこなわれた大学創設50周年記念式典での日の丸掲揚にたいして3学部ある学部のすべて
の学部長が「日の丸掲揚は学内の合意になっていない」という態度表明をし、組合も反対の申し入れ
をしたことについては前回書き込ませていただきました。
結局当日の式典会場では県や市の旗、大学の旗など数本の旗同様にスタンドにたてる形で
舞台ソデに置く形で持ち込まれました。参加した人に聞くと(私は行かなかったので見ていない)
「目立った形にはなっていなかった」といいます。
「正面掲揚」といった特別に意識を発揚する形にいたらなかったとはいえ、しかし、式典会場に
持ち込まれたことは事実です。とくに東京外大のような広い取り組みにいたらず教官の中で
「組合任せ」という雰囲気があったことは意識動向として注意してみておくべきでしょう。
なお、今日の在位10周年にあたっては10日付「朝日」報道にあるように福島大学にも文部省
から日の丸掲揚の「要請方依頼」が来ていることが教授会の質疑であきらかになりました。しかし、
今回は学長の判断で掲揚はおこなわない、ときいています。
この点は、ささやかながら反対運動の成果として受け止めたいと思います。
これらの事態を見ていくつか考えるのは、
@日の丸掲揚が、各大学の改革議論と抱き合わせの形で強行されようとしていること。
外大は移転問題の予算措置、福島は新学部創設など、「首根っこを押さえられている」状態。
また、「独法化のあとの生き残り」とかかわって、反対運動のような目立つことはするな、という
「自粛」意識が作用しているきらいがあること。
運動を広げるためには、こういう「自粛」ムードの人も含めて納得する論拠を示していく必要が
あるのでしょう。
A圧倒的に、現在生じている事態の状況把握が遅れていること。
新制大学50周年記念式典は多くの大学でおこなわれたはずで、声の聞こえてこない大学では
意識化されないまま事態がすすめられている可能性があります。外大の状況をお聞きする中で、
文部省がほとんどマニュアル化した指導を各大学におこなったこともはっきりしてきました。
以上、とりいそぎご報告まで。
Saturday, November 13, 1999 at 11:34:39 (JST)
石田英敬 <gm4h-isd@asahi-net.or.jp>
新聞紙上などですでに一部報道されていますが、小森陽一さんが中心となって, 昨日行われた「天皇在位十年国民祭典」を前に、「奉祝曲」を作曲演奏したYOSHIKIさんに、以下のような「公開質問状」を出しました。全文を紹介します。
「YOSHIKIさんへの公開質問状」
東京大学教員有志
はじめてのお手紙をこのような形でお送りする失礼をお許し下さい。
新聞などによると、YOSHIKIさんは、十一月十二日に皇居前広場で開催される、「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」において、ご自身が作曲された「奉祝曲」を演奏されると報道されています。私たちは、このことに深い懸念と危惧を抱いているため、止むを得ず公開質問状を出すことにしました。
まず、この「式典」への出席者の顔ぶれを見わたしたとき、私たちは、多くの人々を「動員」する力が、天皇への貢献として評価される基準になっていることに気がつきました。私たちは、この点に「象徴天皇制」の変質の危険を感じています。
これまでも「園遊会」や「叙勲」という形で、天皇に対する貢献を評価する事業が行われて来ました。そこには、文化や教育、あるいは芸術における社会的な貢献が、まがりなりにも視野に入っていました。けれども、今回の「式典」の出席者に選ばれたSPEED、安室奈美恵、GLAYといったミュージック・シーンで活躍している人々、ありはスポーツ界の松坂大輔、王貞治、星野仙一という具合に並べてみると、これは観客を「動員」する能力と実績が評価基準の中心になっていることは明らかです。
宇宙飛行士の向井千秋さんも例外ではないでしょう。彼女が宇宙から送ったテレビの映像に釘づけになった視聴者の数こそが、主催者である「奉祝委員会」(稲葉興作会長)、あるいは「奉祝国会議員連」(森善朗会長)にとっては重要だったのです。
「日の丸・君が代」を国旗・国歌として法制化する法案が国会で強行されるちょうどその頃、この「式典」の主催者の中心人物が、GLAYが二十万人を「動員」したコンサートに強い関心を示し、その視察に赴いた、という報道があったことを、私たちは確かに記憶しています。その人物は楽曲の質や詞の内容にではなく、ただただG LAYというグループの観客「動員力」だけに興味を示していたのです。
内容はどうでもいい、問題は「動員力」だけだという発想ほど文化・スポーツ・学術の分野で活動している人たちを侮蔑し、かつ愚弄するものはないと、私たちは考えますが、いかがでしょうか。
YOSHIKIさんも、やはりかっての「X-JAPAN」の「動員力」を評価されて、選抜されたのではないでしょうか。
権力を持つ人たちの、こうした身勝手な姿勢にロック・ミュージシャンとしてのあなたが、やすやすと応じていいのでしょうか。それはあなたの楽曲や、元「 X-JAPAN」の演奏を愛し、声援を送りつづけて来た多くのファンを裏切ることにならないでしょうか。
なぜなら、あなたがこの「式典」に利用されることは一人一人のファンの個別性を消してしまい、「動員」できる数として天皇に「奉」ることになるからです。あなたが「奉祝曲」を作曲し、演奏することは、以上のような意味を持つと思うのですが、いかがでしょうか。
また、私たちは、この「動員」に主眼をおいた「式典」が戦争をすることへ向けて「国民精神」を準備するねらいを持っていると感じています。この「式典」のスポンサーは、「財団法人国民精神研修財団」という不気味で怪しい名称を持っています。YOSHIKIさんへの作曲料も、この「国民精神」を「研修」する、あるいは「国民」に「精神研修」をさせる「財団」から支払われることになるのでしょう。
この国で「国民精神」という言葉が、きわめて危険な戦争の道具として使用されはじめたのは、一九三七(昭和十二)年のことでした。この年の三月、文部省が「国体の本義」を刊行し、天皇制的国家思想を国民に注入しようとし、十月には「国民精神総動員中央連盟」が結成され、日常生活の中での心の動き方までが、戦争に「動員」される国家的運動が始まったのです。
YOSHIKIさんも御存知のように、この年廬溝橋で中日両軍が衝突し、中日戦争が全面化し、日独伊防共協定が結ばれた後、日本軍は南京を占領する際、大虐殺を行っています。
「ガイドライン法」によって着々と「戦争をする国家」に近づけようとする動きの中で、「日の丸・君が代」が法制化され、「即位十年」を祝して「日の丸」を掲揚せよという命令が文部省から、全国のあらゆる学校に対して発せられている現在の状況と、六二年前の出来事は、私たちの中では重なって見えます。
「国民精神研究財団」は、その名が示すとおり、「国民精神」を、天皇に向けて、天皇の国家に向けて、そして「戦争をする国家」に向けて「動員」できるような「研修」の場として「式典」を位置づけているのだと思います。それは、かっての戦争を肯定する漫画で読者を動員した小林よしのりが出席者の一人であることからもうかがえます。
YOSHIKIさんは、このような「式典」で、なぜ「奉祝曲」を自ら作って演奏なさるのでしょうか。
それに、「奉祝曲」の作曲と演奏は、ほんとうにあなたの自発的な意思なのでしょうか。たとえばSPEEDやGLAYのメンバーは、事務所を通して来た「式典」への出席の以来を断る自由を持っているのでしょうか。たとえ本人からではないにしても、「天皇からの依頼」と事実上言わざるをえない出席要請を断ることはこの国では大変勇気のいることです。このような、自己選択権が奪われた場で「奉祝曲」を演奏することはロック・ミュージシャンであるあなたの精神と生き方への裏切りになるのではないでしょうか。
YSHIKIさん、元「 X -JAPAN」のメンバーであるあなたの背後では、不慮の死をとげたHIDEさんを個別的に追悼した、一人一人異なるファンの心までが「国民精神」として一括「動員」されようとしているのです。
YOSHIKIさん、あなたのお考えを是非お聞かせ下さい。
しかし、皇居前広場を埋めるのは、「X- JAPAN」やGLAYやSPEEDのファンであって、天皇支持者ではないのだという考えのもとに、「象徴天皇制」を内側から破るしたたかなパフォーマンスとして行われるのであれば、お返事は必要ありません。
一九九九年十一月十一日
YOSHIKI 様 東京大学教員有志
東京大学大学院総合文化研究科教授
石田英敬 小森陽一 代田智明 他
主旨賛同
東京大学大学院総合文化研究科助教授
高橋哲哉 他
Sunday, February 13, 2000 at 19:34:02 (JST)
Ryoji Kida <ryoji88@hotmail.com>
とりあえず覗いたという足跡のみを残しておきます。また色々な機会に発言させていただこうと思っています。
Saturday, February 19, 2000 at 11:52:58 (JST)
namcsid <tengteng@jmail.co.jp>
なんて読むんですかここのトピ?...アーキペラゴ(爆)?
クロスロードにも書かせていただきました。踊る在野の巨人namcsidです(笑)
名前はsony社のdiscmanを裏返しに読みました。なかなかいいでしょ。んで僕の名前をクリックするとヤフーの民俗学掲示板をご覧頂けます。ぜし来てください。
民俗学は、まあ人類学と大きく括った方がいいけど、卑近になればなるほどスリリングですよね。宮台せんせいも言っていたけど、研究の対象が社会の一員たるべき自分にも及んでくるから気を抜けない。
「学者の病理」を研究する人が出て来れば、それこそ人類学の面目躍如ですねアハハハハハ
さすがに「民俗学者の生まれるワケ」を追求する豪傑はいないかな?
即「自」的な批評のおもしろさ。たとえばネット上でネット批評したり、警察の中で犯罪が起きたり。なんだか言語や論理の虚妄を暴き出す感じがして痛快。
掲示板はともかく、面白いですね。
自称ナチと縄文スピリットと革命家が、きれいな「MS Pゴシック」フォントに整列して文章を並べているんですから。
また書きます。
削除されたりして(爆)
Thursday, March 07, 2002 at 15:16:27 (JST)
海
何が