「身体としての書物」 今福龍太
第2回 ボルヘス「砂の本」を読む
(月光荘のノートをとりだして・・・)
この不思議なかたちと色のノートは、銀座の古い画材店「月光荘」のウス点スケッチブックですが、これをみなさんにプレゼントしますので、好きな色のものを一冊選んで下さい。「大学ノート」ということばは、もはや死語かもしれませんが、これは、いわゆる既製の大学ノートとはかけはなれた形態や手触りをもった手工芸品的なノート、というよりもスケッチブックで、紙面に線が引かれているわけではない。ただ一センチ間隔で薄いブルーの点が打ってあるだけです。だから、これから書物論という文脈でぼくが話すことを、自由に、ことばを縦書きや横書きにしたり、文字の色や大きさなどをいろいろと試したり、絵や記号を描いたりしながら、あそび心をもって書き留めてくれるといいと思います。と同時に、そうやって遊戯的に手を動かしながら、しっかりと思考を深めてほしい、そういう思いもあります。
早速このノートの表紙を開いた「見返し」部分に、アルドゥス・マヌティウスの出版工房の標をコピーしたもの、錨に海豚がからみつく図案を貼り付けるところから、始めましょうか。図案の下に記された文字、「festina lente」というのは、有名なラテン語の警句ですね。「festina」が「速く」「いそいで」で、「lente」が「ゆっくり」「落ち着いて」「慎重に」といった意味、。いそげ、落ち着いて。あるいは、ゆっくり速く。こうした矛盾をはらんだ機知ある表現を、アルドゥスは、自分の印刷・出版活動のモットーにしました。先週話したように、アルドゥスは見やすさや版面の活用のためにイタリック体という活字を発明した人物です。たしかに、一方でそうした、ゆっくりと時間をかけた印刷技術の洗練や開発は大切なのですが、しかしそればかりにあまりにこだわって時間をかけすぎると、今度は、肝心の書物が一般の大衆の手もとに届かなくなる。そのことに、アルドゥスは大変に敏感でした。どこかで、技術的洗練化の探究心や欲望を一度切断しないと、書籍流通の迅速性が生まれない、ということでしょう。そして、「ゆっくり、速く」ということばを、本を製作する側だけではなく、われわれ本を受け取って、テクストを読解する側のモットーにもしてみてはどうだろうか、そういう意図があるわけです。
さて、今日の授業までに、ホルヘ・ルイス・ボルへスの「砂の本」と山口昌男「カバラの伝統--ゲーテ、フロイト、ボルへス」(『本の神話学』所収)という、われわれの書物論にとって非常に重要な二つのテクストをまず読んできて、「砂の本」について自由な読解による感想文を書いて来る、というのが休暇中の課題でしたね。それから、このクラスのメンバーの何人かは、先週、山口昌男先生の府中の自宅をたずねて、文庫の蔵書整理をする作業をしてきました。短い時間ではありましたが、それでも、山口文庫の再生プロジェクトの第一回目としては、まずまずの成果があったと言っていいでしょう。それぞれのメンバーが、あの場所で、きっと何らかの感触をつかんだと思います。つまり、ここでわれわれが主題としている「身体として書物」と、その宇宙に実際にふれることができた--そういう新鮮な感覚を、作業をする自分自身の手にまず刻むことができただろうと思います。
府中の山口文庫は、蔵書数にして、およそ一万冊ほどでしょうか。まあ、本の冊数などというものには、およそ意味はありません。蔵書家の個人文庫で、二万、三万冊の規模、という例は、おそらくいくらでもあるでしょう。そしてそういう個人文庫に対しては、ふつう、「一生のうちに、あなたはよくそれだけの本を全部読みましたね」、というのが、まず常識的な反応になるわけです。しかし、本というものは、所有した以上はすべて読まなければならないものでもない。また一冊一冊、はじめから最後まで読み通さなければならないものでもありません。なぜなら、本のなかのある断片を読み、それを別の本のなかの断片と縫い合わせるように結びつけてゆく、というのもまた本質的な読書行為だと言えるからです。それから、本を買っておく、もっておくという行為は、かならずしもただちに読むという行為には結びつきません。手に入れた本をすぐには読まないで棚に並べておく、しかしそれが何十年後かの自分に突然語りかけて来る、そういうことは実際によくあることです。先ほど触れたアルダスの錨の標、「festina lente」の例でいえば、ある書物を錨を下ろすようにまず沈めておく。長い時間がそこで流れ、しかしあるとき、蔵書家の頭脳のプールの中で、あのイルカが機敏に泳ぎ出し、海面から跳ね上がるように、その書物がふたたび目の前で一種の啓示として輝き出す、そういうことですね。
ともかく、山口文庫の棚に並ぶ本だけじゃなくて、それこそ居間のソファーでどっしり腰かける先生の足元にまでごろごろとあふれかえる、あの混沌とした書物の群れは、われわれが通常考える蔵書家の書庫のイメージからは、そうしたたたずまいひとつとっても、ずいぶんかけ離れていたと思います。ふつう、蔵書家と言えば、自分の専門や関心の領域にそった同一の主題やジャンルの本をひたすらマニアックに蒐集する、というのが、まあ大半でしょう。しかし、学問分野とかジャンルなどというものは、山口文庫の宇宙には無縁です。先生は、世間ではいちおう人類学者ということになっていますが、あそこには、人文学の研究書からマンガまで、およそありとあらゆるジャンルの、そしてあらゆる言語で書かれた本が、書架に並んでいたわけです。かといって、ただ漫然と、雑多な書物が無造作に集められているわけではない。そこにはやはり、書物と書物をつなぐ隠された連関性の糸のようなもの、背後に連綿と流れるイデアのようなものが存在するわけです。だからこそ、山口文庫のあの混沌としたたたずまいは、意識と無意識をともにかかえるかたちでの、先生自身の頭脳にきざまれた複雑な襞を正確に映し出す象徴の宇宙だ、とも言えるし、それがまさに「身体としての書物」という語のもっとも核心的な意味です。そして、宇宙としてのあの文庫という空間で、そうした書物と頭脳とが相互に対話して、呼応しあうときに、おそらく山口昌男の知と学問は、もっともエネルギッシュに躍動しはじめるのだと言えるでしょう。
ボルヘスの「砂の本」にもどりましょう。決して難解とは言えないこの短編を読めば、書物をめぐっていくつかの興味深い問いかけが、ただちに浮かぶはずです。そう、みなさんのほうから意見が出たように、たとえば、「聖書の売人」が「砂と同じくその本にも、はじまりもなければ終わりもない」という「砂の本」とは、いったいどういう形をしているのか? 「砂の本」を形容する句がさまざまに変化している点にも、よく注意して下さい。「神聖な本」、「悪魔の本」、「怪物」、「悪夢の産物、真実を傷つけ、おとしめる淫らな物体」・・・。もし、このような不可能な本を自分で実際に製作してみるとしたら、どういう形態が可能性として考えられるのか? こういう純粋な好奇心は、つねにもっていてほしい。インターネット上では、Java言語などをつかって、ボルヘスの「砂の本」の重層性を仮想的に再現してみる試みがすでにあります("The Book of Sand") 。また、テクストの153ページに「わたしは何気なくその本を開いた。知らない文字だった」とありますが、読めない書物を読むとはどういうことか? モノとしての書物の意味についても考えてみなければならないでしょう。「この世界において、すべては、一巻の書物に帰着するために存在する」というマラルメの有名なテーゼとのつながりを指摘する意見や、同じ本でも別の時に読むとちがう印象を受けるといった経験を誰でもするけれども、これは本との出会いの一回性にまつわる寓話ではないかと言う意見も出ました。
ここで、すこし細かく作品に立ち入ってみましょう。そうしたマラルメ的な世界としての書物、無限の書物をめぐる物語世界に読者を誘い込むために、ボルヘスが巧みに仕掛けた記号の存在に、まず気づかされます。ブエノスアイレスという都市に刻まれた世界中の土地土地の名がそのひとつです。たとえば、ベルグラーノ通り(これは、旧ユーゴのベオグラードですね)、スカンジナビア人、オークニー諸島、ビカネール、ボンベイ、スコットランド、ノルウェーの族長、メキシコ通り・・・。ヨーロッパ周辺の国や都市、群島、それから砂漠のオアシス都市までの、じつに多彩な地勢が一堂に会しています。ブエノスアイレスも南米の移民都市ですから、人間の流入とともに、かれらが背後にかかえる土地の名も引きずられてくるわけです。南米では、日本と違って、都市の通りにはすべて名前がついています。ぼくがメキシコシティで最初に住んでいたのはゼウス通りといって、ほかにもソクラテス通り、アリストテレス通り、と周囲一帯の道路がギリシア哲学者から名前がとられていました。都市のなかであたらしく開発された地域などでは、通りに名前を付けなければならないということで、ここはヨーロッパの哲学者の名前にしようとか、あそこは世界の国の名前にしようとか、そういう機知がはたらきます。それはともかく、こうした作品舞台をなす都市における地名の重層性・無限性が、世界としての書物の無限性という主題に、非常にうまい具合にスパイスとして効いているわけですね。
それから、153ページ。「聖書(ホーリー・リット)」とあって、その説明があります。「粗末な印字の、古びたページは、聖書によく見られるように二列に印刷されていた。テクストはぎっしりつまっており、一節ごとに区切られているページの上の隅(この部分のことを、「アングロ」と言います)には、アラビヤ数字がうってあった」。ノンブルのことですね。ここで、書物の聖と俗ということを考えておきたい。グーテンベルグ版もふくめて聖書、「Biblia Sacra」、つまり原初の本には、じつはノンブルがありませんでした。聖なる神の言葉に人間が外部から序列をつける、ということはなかったわけです。聖書には、そのテクスト自体におのずから序列が存在したのでしょう。そして、一般大衆にむけた文芸書をはじめてポータブルな本として流通させることを目的にして製作された八つ折り本のアングロの部分にはじめてノンブルをつけたのが、ほかならぬアルドゥス・マヌティウスでした。聖と俗、これはどちらがいい悪いという問題ではなくて、この書物論では、こうしたノンブルの意味論にもこだわってゆきたいのです。ボルヘス自身、このことに自覚的ではなかったとは思われません。同じ段落は、こう結ばれていました。「よく辞書に使われるような小さな挿絵があった。子供が書いたような、まずいペンがきの錨だった」。そう、これは、アルダスの標ですよね。
「砂の本」の物語は、幾何学的な比喩からはじまっていますが、たとえばそこに登場するノンブルの数字、四〇五一四、九九九、八桁の数字、九乗した数、など、そうした数字的な緻密さとか、156ページの人名や固有名、スティーヴンソンとか、ヒューム、それから、「ウィクリフ訳聖書」、といった部分にもこだわって探索してみてもいいでしょう。こうした要素を、ただ単に、ボルヘスの衒学趣味といって、通りすぎてはもったいないからです。
デイヴィッド・ヒュームは、18世紀スコットランド出身、懐疑主義の思想家。ウィクリフ訳聖書というのは、14世紀末に完成した最初の英訳聖書ですね。そして、とりわけここで重要なのが、ロバート・ジェイムズ・スティーヴンソンという名前でしょう。1850年にスコットランド・エディンバラで生まれ、太平洋群島の熱帯世界を放浪した作家です。『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』といった作品で有名ですが、「声たちの島」という傑作の掌編があります。これもふくめたスティーヴンソンの作品集は「バベルの図書館」というボルヘスが個人編集したじつにおもしろい選書シリーズの一巻としておさめられていて、日本でも翻訳が国書刊行会からすばらしい装幀本で出ています。「声たちの島」はまさにバベルの塔以後の、言語のバベル状況をハワイ島の魔術的な空気のなかに再現した不思議な寓話です。それからこの同じ本には、「壜の小鬼」という中編小説もあって、これは、それをもっていれば何でも望むものが手に入るといわれる壜を手に入れた男がじょじょに不安や恐怖にのみこまれてゆくという、「砂の本」と非常によく似た話ですね。
さて、その「砂の本」の最後は、世界としての書物の悪夢にのみこまれる恐怖、畏怖が描写されているわけですが、こうあります。「わたしは火を考えた。だが無限の本を燃やせば、同じく無限の火となり、地球を煙で窒息させるのではないかとおそれた」。ここまでくると、もうまいったというほかはない。いかにもボルヘス的な表現の真骨頂ですね。無限という非常に抽象的な観念を、火の煙と言う具体的な感覚イメージに結びつける技巧は、さすがです。抽象を具体に瞬時に反転させるようにしてむすびあわせて、不可能事を一気に表象化してしまうこと。ボルヘスという作家は、詩作品以外はほとんど数ページ、数十ページの短編ばかりを書いてきた人ですが、もっとも得意とする手法が、これでした。おなじ本におさめられた「円盤」、それから『伝奇集』の「アレフ」、そして次に読む「バベルの図書館」などもそうですね。
ところで、みなさんはこの日本語訳のテクストを読んで、矛盾というか、おかしなところがあることに気づかなかったでしょうか。完全な誤訳とはいえませんが、あきらかに不十分な訳が一箇所あるのです。
「小さな挿絵が、二千ページもはなれているのをたしかめた。それをアルファベット順にノートに書きつけていったが、ノートはすぐに一杯になった。それらは一度も重複することがなかった。」
これ、語り手は一体何をやっているのでしょう? 「小さな挿絵が、二千ページもはなれているのをたしかめた」。これは、まあ、わかったことにしましょう。では、その次の「それ」、とは一体何を指していると思いますか? 挿絵を、アルファベットに記号化して、ノートに記している? まあ、そういう解釈は成り立ちますが、そんなことをしても、この砂の本の無限性を実証するためには、何の意味もないでしょう。ここでは、日本語の訳者も参照したと思われるノーマン・トマス・ディ・ジョバンニによる英語訳を参照してみましょう。
The small illustrations, I verified, came two thousand pages apart. I set about listing them alphabetically in a notebook, which I was not long in filling up. Never once was an illustration repeated.
先ほども触れたように、「わたし」は、この本が書かれている文字が読めないわけです。だから、挿絵や、ノンブルを手がかりにして、ページをめくることしかできないわけですよね。英訳では、かなり訳者自身の解釈も反映されているようですが、「それ」は、挿絵(illustration)と言い換えられています。しかしやはり、挿絵をなんのために「アルファベット順にノートに書きつけていった」のかよくわからない。ここはやはり、スペイン語原文にもどるべきでしょうね。
Comprobe que las pequenas ilustraciones distaban dos mil paginas una de otra. Las fui anotando en una libreta alfabetica, que no tarde en llenar. Nunca se repitieron.
実は、英訳も日本語訳も、「en una libreta alfabetica」を「アルファベット順にノートに」と訳しているのが間違いなんです。「alfabeticamente」ではなく「alfabetica」ですから、これはぼくも実物がどういうものかを知りませんが、おそらく「アルファベット練習帳」なのです。つまりここで「わたし」は、同じ挿絵が出てくるページを探してはそのノンブルをひたすらアルファベット練習帳に書きつけていった。しかしそれらのノンブルの数字は一度も重複することがなかった、と解釈するしかないでしょう。そうすると、この本が無限個の頁でできていることが感触としては伝わってきます。しかもそうした作業を、子供が字を最初に覚えるときに使う「アルファベット練習帳」の小冊子で行っているという逆説的な機知が、きわめてボルヘス的な物語的アクセントでもあるわけです。すっと読み飛ばさないで、こういう細部の問題にもつねに注意をはらいましょう。まるで、ここでの語り手が「砂の本」のとりこになって、書物をくまなく調べつくすような、そういうやや偏執狂的な手つきが、ボルヘスのような作品を読み解くときには私たちにも必要なのかもしれませんね・・・。
さて、翻訳の問題は、タイトルにもかくされています。「El libro de arena」。砂の本、英語では「The book of sand」、フランス語でも「Le livre de sable」などと訳されていますが、実は、スペイン語の砂=arenaはダブルミーニングをもっています。辞書を見ればすぐに出てきますが、一番目の意味が、砂。そして二番目の意味が、円形闘技場、古代ローマのアリーナ、となっているはずです。砂というのは、これ以上のものが見つからない、非常にうまい比喩ですね。「砂の本」の「砂」のかわりに、たとえば何らかの動物や植物などを代入しても、どうもうまくいかない。砂は、無機物ではあるのですが、動物的な流動性をもつ、中間的な存在です。かたちあるものがもろく崩れるイメージも、もちろんあります。しかし同時に、このタイトルには、円形闘技場という古代ローマの疑似宇宙、永遠に循環する円環のイメージも重ねられていたわけです。それが日本語や英語の訳だと消えてしまう。
スペイン語のタイトルに立ち返ると、あの「聖書の売人」とは、世界としての書物といったときの「世界」そのものが身をやつした姿だったのではないか、とも考えてみたくなります。つまり、この「砂の本」という作品は、ひとつの書物が世界を循環するようにして永遠に受け渡され、送り届けられることの秘密を語った寓話だとも言えるでしょう。そうすると、冒頭のエピグラフ、ジョージ・ハーバートによる、直ちには理解することの出来ない謎めいたことば、「汝の砂の綱(ロープ)・・・」という意味も朧げながら浮かび上がってきます。なにものかが崩壊と再生をくり返しながら、円環状につながってゆくことの永遠性を、それは象徴的に暗示しているのではないでしょうか。
次回も引き続きボルヘス、今度は「バベルの図書館」という短編を読みます。これは「砂の本」とちょうど対称をなす作品で、「砂の本」が一冊の書物の中にこもる無限のページとしての世界を主題としているのに対して、「バベルの図書館」は無限に書物が陳列される世界に隠された一冊の書物を主題としています。では、また来週。
(2007年5月8日、於東京外国語大学「表象文化論演習」。聞き書き:浅野卓夫)
●ホルヘ・ルイス・ボルヘス『砂の本』篠田一士訳、集英社、1989。
○ロバート・ルイス・スティーヴンスン『声たちの島』高松雄一他訳、国書刊行会、1989。(ボルヘス編「バベルの図
書館」17)
○山口昌男『本の神話学』中央公論社、1977。
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