「身体としての書物」
第1回
アルドゥスに倣びてー八折り本を作る
第2回
ボルヘス「砂の本」を読む
第3回
ボルヘス「バベルの図書館」を読む
第4回
ボルヘスと焚書について
特別篇
川べりの本小屋で ー山口昌男氏との対話
第5回
「ボルヘス・オラル」を読む
第6回
ジャベス「書物への回帰」を読む
第7回
ジャベス「問いの書」を読む
第8回
ページネーション考 1
第9回
ページネーション考 2
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「身体としての書物」 今福龍太
第4回 ボルヘスと焚書について
「砂の本」、「バベルの図書館」と読み継いできて、ボルヘスの物語世界を媒介にした書物の有限性と無限性、という問題について考えてきました。「バベルの図書館」では、図書館の永遠性・無限性というテーマを、さまざまなエピソードをたたみかけてゆく仕掛けによって表現してゆきます。その仕掛けに誘われて物語を読み進むうちに、われわれは、非日常の別世界だと思っていたあの図書館が、そこで人が生まれ、やがてそこを去り別の六角形へと旅立ち、人びとが愛し、怒り、発狂する、まさにわれわれの世界そのものの比喩であることに気づきます。ところで、先ほど言った図書館の永遠性・無限性というのは、maximumに拡張してゆく時空感覚ですね。一方でボルヘスの作品には「無」、つまりminimumへと収斂してゆく、時空を極度に切り詰めてゆく感覚も描かれる。このふたつの極の間を、絶え間なく高速で往還運動すること--物理学的な運動、もしくは事物のありようとしては不可能な事態ですが、この両極が瞬時に反転するようにしてつながりあう瞬間の真実こそ、ボルヘスが生涯にわたって魅了されたテーマでした。それを多くの人びとは、「迷宮=ラビリンス」と呼びならわしてきたわけです。
先週の講義でもふれたボルヘスの盲目性の問題に、ふたたびもどりましょう。「砂の本」や「バベルの図書館」のテクストに書かれた不明の文字、言語、方言は、その目が光りを失いつつあったボルヘス固有の肉体性の問題を暗示すると同時に、もしかしたら文化における盲目性とでも言うべき問題を暗示していたのかもしれません。つまり、目が開いている/閉じていることが、自動的に本を読むことができる/できないことと等式で結ばれるわけではない、ということです。本を読んでいるようでいてその書物に書かれてある真実を読み取ることできていない、というのは、往々にしてごく一般的にみられる現象ですよね。さて、76ページをみてみましょうか。
「五つの書棚が六角の各壁に振りあてられ、書棚のひとつひとつにおなじ体裁の三十二冊の本がおさまっている。それぞれの本は四百ページからなり、各ページは四十行、角行は約八十の黒い活字からなっている。それぞれの本の背にも文字があるが、これらの文字は、以下のページのいわんとするところを指示も予告もしない」
例によって、おなじ本が無限に増殖してゆくイメージが、ここにもあります。細かい指摘をしておきますと、「それぞれの本の背にも文字があるが」というのは、本のタイトル、書物のもっとも重要な記号のことですね。ところが、「これらの文字は、以下のページのいわんとするところを指示も予告もしない」とありますから、このこのもっとも重要なものであるはずの書物の記号はあらかじめ意味を失効させている。どういうことかというと、タイトルを手がかりに書物を配列してゆく図書館的分類に従って、どのような本がどこに置かれているかということがここでは「不可知」の領域に落ち込んでいる、ということです。
ここですこし立ち止まって、図書館的な分類の機能主義的な方法論について考えておいてもよいでしょう。それは、本の本体=ボディとは何か、という問いにも繋がります。ここにちょうどボルヘスの『砂の本』と『伝奇集』の訳書がありますが、この本のカバー、これって本のボディなのでしょうか? カバーは本のボディではなく、文章が書かれてあるページが本体だ、そう、それが一般的な答えですね。じゃあ、繰り返し読んでぼろぼろになったカバーを捨てて、表紙もこわれてきたとして、自分で表紙を装幀しなおしたら、それは以前と同じ本といえるのだろうか。筆者が、装幀やカバーのデザインなどにもある考えをもって主体的に関わっている場合、カバーは本のボディになる、そういう意見もありますね。ぼくの『クレオール主義』の文庫本をもっている人がいますけど、あのカバー写真は自分で撮ったもので、ぼくの場合は、装幀やブックデザインにもそうとうこだわるんですけどね(笑)。ともかく図書館的分類の場合、本のカバーも本の情報として登録してカタログ化すると、非常に厄介な問題が生じる、ということがあります。つまり、図書館の場合は本を誰かに貸すという行為が必然的にともなう以上、借り手がカバーをなくしたり破いたりしてしまうことがままあって、そうすると本の一部が欠落、欠損したとデータ上に登録しなおさなければならない。だから、今の図書館では、だいたい最初からカバーを外して処分してしまいます。カバーにも著者の写真とか略歴とか、けっこう重要な情報があるのですけどね。図書館によっては、本のカバーも本の一部ということで、ビニールをべったりはってあるところもありますが、あれをやると今度は、本のカバーをはずして、なかの表紙をみることができない。手の込んだ装幀だと、カバーにも表紙にも別個の情報が記されている、というケースもあります。いずれにせよ、今、本のカバーを外した背表紙には必ずタイトルがあって、それが書物の唯一のアイデンティティになりかけている。図書館に買ってもらえないと本が売れないということもあって、もし背表紙にタイトルがないと、図書館の書棚にならべてもらうことさえ不可能な時代なのかもしれません。図書館が本というモノを、付随的な可変要素を排除して極度に単純化しようとする傾向をもつのに対して、他方で古書市場においては、帯とか栞とか月報など付随的な要素がそろっていればそろっているほど、これも不思議な話ですが価値が高まります。本が生きる環境で、本の本体=ボディが変容する、ということですね。図書館長でもあったボルヘスが、こうした問題に無自覚であったとは考えられません。
「バベルの図書館」、テクストのほうにもどりましょう。77ページ、いくつかの公理のふたつめという部分です。「正書法上の記号の数は二十五である」。おなじことが、79ページで「すべての本は、同じ要素からなっていて、それらの要素とは行間、ピリオド、コンマ、アルファベットの二十五文字であった」とくりかえされています。これについては、テクストの最後にあげられた原注、ちょっと謎めいた「編者の注」に、ひとつ項目がありますよね。85ページを見て下さい。「記号の数は二十五」という記述に関して、「句読点はコンマとピリオドに限定されている。このふたつの記号、行間、二十三個の文字が、無名の作者があげている二十五個の記号である」、とあります。ここで言う「行間」というのはいわゆる字間も含めたスペースのことでしょうけれども、それを記号として勘定するというのは、ボルヘスの非常に面白い考え方ですね。盲目性や無にも繋がるこの「空白」もまた、意味性を持った記号要素である、とここでは述べられている。しかしよく考えてみると、ボルヘスはなにも奇をてらってこういうことを言っているわけではありません。たとえば、今ちょっとうまい例が見つからないのですが、84ページの5行目に「無限の」ということばがありますね。これは、スペイン語で infinito。これを字間にスペースを二つ入れてin fini toと分割してみると、イン・フィニ・トゥーとも読めて、この例では意味がなくなってしまいますが、何か英語を思わせる表現に変容します。これは、たとえばコンクリート・ポエムにおける行間・字間などの空白の意味論以前の問題です。それで、コンマおよびピリオド、スペース、それから23個の文字とありますね。アルファベットは26個だという考えに慣れ親しんでいるわれわれの感覚すると、この文字数は、ちょっと変。ところが、じつは23個の字母による普遍言語というのがあって、それが、古ラテン語なのです。英語などの、j、u、wをのぞいた23個のアルファベットから、それは構成されています。
ラテン語が、中世ルネサンス期まで圧倒的な普遍性をもっていた言語であることは、みなさんご存知のとおりです。それはもともとラツィオ、つまりラツィウム地方の人間が使用する一種の方言でした。歴史的な条件の下で移動を通じて各地に拡散・伝播し、さらに政治権力や経済機構と結託する形で、この一ダイアレクトがローマ帝国の言語として標準語化、公用語化していったわけです。しかし帝国の崩壊に伴って、ラテン語はローマ教会、バチカンの言語として使用されるだけになったのですが、宗教言語・文語としての普遍性はいまだ保持していました。言うまでもなくそれは、古典文献がすべてラテン語で書かれていたからです。アルダスが本を一般民衆のもとに広めようとした最初の人物であることは以前にお話ししましたが、この時代、かれの工房が製作していたのも、ギリシア語とラテン語の本でした。現在ではバチカン司教の公文書やミサぐらいしかラテン語は使われなくなって、かれらの日常言語だってすでにほかのことばでしょうし、ましてやラテン語で愛をささやきあったり、市場で値下げの交渉をするといった光景は、もうこの現実の世界には存在しません。
ここでボルヘスのマルティリンガル性について、想起しておくのもけっして無駄ではないでしょう。ボルヘスはスペイン語を話し、みにつける以前に英語世界に生まれた人物でしたが、ラテン語の教養もありました。イタリア語やポルトガル語やスペイン語は、実際のところ事情はもっと複雑なのですが、一般にラテン語の口語から派生した言語であると言われています。しかし南米アルゼンチンのボルヘスの場合、スペイン語といっても、それはカスティーリャ方言、カスティリヤーノですね。スペインには、アンダルシア、ヴァレンシア、アラゴン、カタルーニャ、レオン、ガリシア、と地域ごとにそれぞれ方言があります。隣国のポルトガル語も、イベリア半島の一方言だと考えればいい。フランスとの国境、ピレネー山脈にかかる西側の地域だけが、これとは異質な文化的な背景をもつケルト系バスクの世界です。もとはヨーロッパ内陸部からやってきた海洋民族ですね。カスティーリャの中心都市、マドリッドに王の宮廷があって、王国の中南米出にともなってカスティーリャ語も大西洋をこえて拡散していきました。いずれにせよ、ボルヘスのマルティリンガル性、ボルヘスが内部に抱える言語的な旅程や転位のプロセスは、たとえば、78ページのこの文に象徴的に表現されています。
「五百年前、上のほうの六角形の監督者が、他のものとおなじように判然としないが、しかしおなじ行がほとんど二十ページ続いている一冊の本を見つけた。彼が発見した本を巡回解読係に見せると、この男はポルトガル語で書かれているといった。ところが他の連中は、イディッシュ語で書かれていると教えた。一世紀たたないうちに、その言語が突き止められた。それは、古典アラビア語の語尾変化を有するグアラニー語のサモイエド=リトワニア方言であった」。
巡回解読係って、これはいったい何ものでしょうね? バベルの図書館がわれわれの世界そのものの比喩であるならば、これはいったいわれわれの世界におけるいかなる存在に対応するのだろうか、こういうことを考えてみても面白いでしょう。それはともかく、ある書物に書かれた言語を同定するのに、この図書館の人間はああだこうだと言いあううちに一世紀、百年も費やしたようです。そして最後の、古典アラビア語云々というのは、まあいわばボルヘスが創造した、一種の「メチャクチャ語」。読む人が読めばこれは相当に笑える部分です。グアラニー語というのは、南米インディオの言語。これを公用語としている国が、ちなみにパラグアイです。それから、サモイエドというのは、シベリアのウラル語族の一分派。ここにもまた、言語的混沌というかたちで、ボルヘス流の迷宮の仕掛けが存在します。
先週も話したように、バベルの図書館では、「弁護の書」という神の本をめぐる人間同士の争いや殺戮もおこります。これは、世俗世界の人間の出来事を書物論的出来事として比喩的に語る一種の寓意(アレゴリー)でしたが、この神の本に対しては、崇高な憧憬の感情のみならず憎悪の感情や呪詛のことばもむけられます。81ページを見てみましょう。
「他の連中は、反対に、大事なことは無用の作品を消滅させることだと考えた。かれらは六角形に侵入し、つねに偽造のものというわけではない信任状を呈示した。面倒くさそうに一冊に目をとおしただけで、本棚全部の破棄を命じた。彼らの衛生的かつ禁欲的な熱意のせいで、何百万冊もの本の意味のない消亡が生じた。彼らの名前は呪詛の的となった・・・」
「消滅」、「破棄」ということばがくり返され、強調されていることに気づくと思います。ところで、また面白い表現がひとつありますね。「つねに偽造のものというわけではない信任状」・・・! ここでもボルヘスは、執拗に、コピー/オリジナルの反転の問題を呈示しています。もう少し、つづけましょう。
「しかし、彼らの乱心によって破壊された「宝物」を惜しむものたちは、二つの顕著な事実を忘れている。ひとつは、図書館はあまりにも大きく、人間の手による縮小はすべて軽微なものであるということ。いまひとつは、それぞれの本が唯一の、かけがえのないものだが、しかし(図書館が全体的なものであるので)千の数百倍もの不完全な複写が、一字あるいはひとつのコンマの相違しかない作品がつねに存在するということ・・・」
そうです、ついさきほど本の「消滅」、「破棄」について語りながら、その直後に前言を撤回するように、本の「縮小はすべて軽微なものである」、「千の数百倍もの不完全な複写が、一字あるいはひとつのコンマの相違しかない作品がつねに存在する」などといって、またしてもボルヘス的な矛盾がここに存在するわけですね。後者の言い方に関しては、「砂の本」の無限の炎が、別種の次元に置き換えられて語られている、と考えてもいいでしょう。
ここにいたってわれわれは「焚書」の問題に直面するわけです。さきほどちょっとふれた、本のボディと人間のボディをめぐる問題を考えておきましょうか。本を焼く、破壊するという行為は、どこかで人間を焼き殺すことと想像力で結ばれています。臓器移植の現場で、いまだに心臓移植にはさまざまな抵抗がありますが、それは医療の技術的な問題ではなく、アイデンティティ=人格性の問題があるからですよね。他者の心臓を移植されたわたしのアイデンティティ、わたしの自己とは何なのか? 心臓を脳に置き換えれば、この問いはさらに深刻なものになるでしょう。そしてあらゆるすべての臓器、あらゆるすべての肉体部分、四肢を移植された人間の自己同一性というものを想像して下さい。書物も同じです。さきほど、カバーは本のボディか、という問いを出しましたが、どこで本がはじまり、どこで本が終わるのか。書物のボディ、本の個体生命の境界線は、どこにあるのか、書物の同一性の輪郭はどこに設定できるのか・・・。
焚書とは言うまでもなく本のボディをまるごと焼却処分することですが、それではなぜ本を地中に埋めてしまったり、裁断してしまったりするのではいけないのでしょうか? なぜ、わざわざ焼くのでしょうか? そうです、なにかを焼くのはとても時間がかかるということ、そしてそれが民衆の目にふれるスペクタクル性、これこそ権力にとってもっとも重要な要素だったはずですね。あの9・11のツインタワーの火災の様子をわれわれは崩壊の図柄として記憶していますが、あれは要するにビルの建物そのものではなく、オフィスの書類がしばらく燃えていたようです。そして何ものかが燃え上がる炎のスペクタクルは、なぜか、人間の肉体的な痛苦の感情にとりわけつよく訴えかけます。歴史的に、魔女裁判などの火あぶりの刑が、そういうものだったわけですが、焚書はこれとまったく同じ想像力の産物です。われわれは焚書というと秦の始皇帝のそれを思い浮かべます。またナチスがユダヤ人をガス室で大量殺戮したあと遺体を焼却したのは有名なはなしですが、と同時にナチスは全体主義的なイデオロギーのキャンペーンにおいて、ある種の書物を「退廃的」と指定し、文字通り「焚書」をしています。つまり古代から20世紀まで、あるいは現在まで、権力によって焚書は連綿とおこなわれつづけてきた、と言うことができるのです。
レイ・ブラッドベリというアメリカの作家がいて、いくつかの重要なSF文学の作品を残しています・・・そう、ボルヘスは基本的に短編作家でしたが、ボルヘスが長編小説を書いたら、ブラッドベリのような作家に近づくかもしれませんね。ボルヘスはブラッドベリの『火星年代記』に序文も書いていますし、『北アメリカ文学講義』でもブラッドベリの寓話作家としての才能に触れています。それはともかく、1953年に刊行されたブラッドベリの『華氏451度』という近未来小説の傑作があります。ぼくは十代の半ば頃SFにはまっていたことがあったのですが、これはなかでも衝撃的な作品でした。華氏451度とは、紙が自然発火する温度、摂氏でだいたい220度ぐらいですね。この作品は書物の所持が禁じられた近未来の世界を舞台にした、ある焚書官の男--あらゆる本、たとえばディケンズとかホイットマンとかフォークナーの文学作品を非人間的な冷淡さでもってひたすら焼却処分することを任務とする人物の物語です。ところがこの焚書官という仕事は、じつは、言うまでもなく書物と接する機会がもっとも多い職業でもある。モンターグという主人公の男は、あるとき焼却処分する前に本を読んでしまう。そして本そのものへの興味をかきたてられ、そこに記された知識や物語にめざめてしまい、そうした発見と自己の職分とのはざまのジレンマに悩まされながらも、やがてこの近未来世界の地下に潜行する書物部族と出会ってゆく、そういうストーリーです。知識というものを書物を通じて伝達されることが徹底して弾圧された世界で、人びとは「海の貝」という小型ラジオのような通信機を耳に装着し、どこからか発信される音楽や権力者の演説などを聴いているのですが、家の壁一面がスクリーンになっていて、映像と音声がシンクロし、ヴァーチャルな世界にひとりひとりが没入しているーーこれってまさに「現代」の日常の構図だと思うのですが、そういう、ジョージ・オーウェルが『1984』で描いた世界にも通じる、全体主義的なディストピアが描かれていたわけです。そういうわけで、ぼくは、この作品をはじめて読んだ時から、これは近未来に設定された物語だけど、この寓意=アレゴリーの棘は、現代に突き刺さっているとずっと感じていました。この『華氏451度』という作品が発表された1953年という年に注意して下さい。これはマッカーシズム、アメリカでいわゆる赤狩りの嵐が吹き荒れていた時代で、言論を弾圧し統制する権力が横行していた時代でした。
「発禁」=「禁書」、英語ではbannedと言いますが、本に対する権力の抑圧的な身ぶりには、ほかにも検閲、伏せ字、差別語や特定語彙の削除など色々あります。たとえば、今から20年ぐらい前に軍政時代のチリに行ったことがありますが、あのころ街で買う新聞は半分以上が検閲をへて空白にされていて、ですから新聞はニュースの役割をほとんどはたしていなかった。というよりもむしろ、この新聞の奇妙な空白が、チリの政治的現実が何ものであるのか映し出していたわけですね。それから、最近は東京辺りの駅に「青少年有害図書用ポスト」というのがありますよね。たしかに、どうしようもなくくだらない書籍がこの日本社会で大量にでまわっている現状もありますが、あれ、何かイヤな感じがしませんか? たとえば今、北米でブッシュ政権を背後から支えるプロテスタント原理主義も同じことをしていて、ある種の書物を「有害図書」に認定して処分するキャンペーンをはっていますが、そのなかには、進化論の解説書みたいなぼくらの感覚から言えばとても「有害」とはいえない本も含まれている。つまり、ボルヘス、ブラッドベリが暗示した焚書の世界、それは、まさにアクチュアルな問題としてこの現代のまっただ中に存在するのだ、と言っていいのだと思います。
さて、今回の講義は「バベルの図書館」を、焚書の現在と言う問題意識までぐーっと伸ばすように読んできたので、先週予告しておいた『ボルヘス、オラル』に立ち入ることができませんでした。今後もこういう遠回りや寄り道はしょっちゅうあるかと思いますが、次回こそは、『ボルヘス、オラル』に収録された書物論的テクストを読みましょう。それでは、きょうはこのあたりで。
(2007年5月22日、於東京外国語大学「表象文化論演習」。聞き書き:浅野卓夫)
●ホルヘ・ルイス・ボルヘス「バベルの図書館」『伝奇集』鼓直訳、福武書店、1990。
○ホルヘ・ルイス・ボルヘス『ボルヘスの北アメリカ文学講議』柴田元幸訳、国書刊行会、2001。
○レイ・ブラッドベリ『華氏四五一度』宇野利泰訳、ハヤカワ文庫、2000。
○レイ・ブラッドベリ『火星年代記』小笠原豊樹訳、ハヤカワ文庫、1976。
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