「身体としての書物」 今福龍太
第12回 模倣、交感、井上有一 ベンヤミンと書物 3
ごく一般的に考えられている書道は、次のようないくつかの段階をふまえて成立しています。まずは「手習い」の段階、それから「楷書」、「行書」とつづいて、ここに場合によっては「くずし字」が入ることもあるでしょうが、最後に「芸術としての書」の段階が来る、とこうなるわけです。こうした図式は、文字のゆらぎや運動の進展の道筋をあらわすものですが、有一や子龍の「書」は、この一連の流れのなかのどこにも入ってこない、と言っても過言ではないでしょう。
いま「芸術としての書」と言いましたが、書道の歴史が美術史の側からアートとして位置づけられる、権威づけられるということは、これまでめったにありませんでした。作品としての書が、美術館の収蔵品リストの対象となることも、あまりなかったのです。書がいくらみずからを芸術として主張しても、郷土館や文学館にしか相手にされない。そういう意味で、「芸術としての書」は、美術史のなかでも非常にマージナルな存在だったと言えます。美術館で井上有一展が開催されるようになったのも、有一の没後のことです。
その井上有一は、「書は万人の芸術である」と言っていました。日常において文字を書くという経験から、ダイレクトに芸の領域に入っていける、ということでしょう。また、「書は原始人における土器のようなものである」とも言っています。ここに、有一が墨人会に提出した「会員退会届」という資料がありますが、これをみれば、少なくともかれのなかでは、日々書かれる手紙と芸としての書とのあいだにまったく乖離がなかった、ということがわかります。
井上有一は、何年もかけて同じ文字を書く、ということを実践してきました。たとえば「風」、「花」、「月」、「愛」、「貧」。有一の書のなかでも最後の「貧」という字はよく知られていて、それこそ何百枚もの作品が残されています。おそらくそこでは、文字のかたちのなかで何を考え、何を表現するか、ということが問われていたにちがいありません。ベンヤミンが言う、文字と物体が未分化の状態、文字に向かう子供の目と指先が融合しているような状態が、ここには存在する、と言えるかもしれません。ところで、井上有一に「日々の絶筆」というよく知られた文章があります。そこには、こんなことが書かれています。
「書は線の表現であるといっても、文字を書くことの中で線が実現するところに、書の複雑微妙な秘密がある」
「書は文字を書くことであって、線を書くことではない。いい線を書いてやろうと思うとたんに、書は一等級格を下げる」
芸術家としての書家は、美しい線を書きたいと願うものですが、有一は文字から線を出す、とここで言っています。そして線を書くのではなく字を書く、別のところでは「字を書くというよりは、鷹を書く、花を書く」というようなことも言っています。有一の直観した文字のミメティックなあり様ですね。
さて、前回配布した資料をみてみましょうか。みなさん、これ、何て書いてあるかわかりましたか? 実はどちらも「龍」。井上有一の「龍」と子龍による「龍」です。有一のほうは「筋(すじ)」、筆を運んだ軌跡がはっきり辿れますね。筆を墨汁の壷に一晩浸けておくと、筆が墨を十分吸い込むと同時に毛がまとまって固まる。そうすると、こういう筋が生まれます。いっぽうの子龍の作品は、金箔の屏風に書かれたものです……。まあ、ここでこの二つの「龍」のあいだにあるスタイルの違いを美学的に考えるつもりはまったくありません。そうではなくて、ここにありありと現前する文字のミメティックな運動性について、多方向的な視角から考えてみたいわけです。
そこでまず、井上有一(1916年〜1985年)という書家について、簡単に振り返っておきましょう。東京下町の古道具屋の息子として生まれていますが、書家として名乗りを上げるのは戦後の1950年代のことです。その50年代の半ばごろから、「前衛書道」という言葉が、広く大衆的な用語として定着しはじめます。坊主頭のおじさんが上半身裸でホウキのような筆で汗だくになって字を書く、そんなイメージが当時の新聞漫画の「サザエさん」とか「まっぴらくん」にも登場したりしました。そしてこうしたイメージを作りあげたのが、ほかならぬ井上有一だったわけです。
奇しくもほぼ同時代のアメリカでは、画家のジャクソン・ポロックが「アクション・ペインティング」、つまり床に寝かせたキャンヴァスに絵の具を振りまいたり投げつけたりする手法を確立して、注目を浴びていました。しかし井上有一とポロックのあいだには直接的な影響関係はありませんでしたし、有一自身にも「アクション・ペインティング」への志向性はまったくなかったと言えるでしょう。
それよりも、井上有一にとって決定的に重要だった条件は、かれ自身の母親が文字の読み書きが出来なかった、ということです。いっぽう古道具屋の主人である父親のほうは、俳句や俳画をたしなむ字の上手な人だったと言われています。
近代において「文盲」は、一般的に遅れた存在としてネガティヴに理解されがちですが、有一にとってそれはかならずしも否定的なあり方ではありませんでした。識字教育における黙読や音読の問題は、これまでもこの書物論の授業のなかで何回か話題にしてきましたが、それは「学校」という近代的な教育制度のもとに、言語を視覚的道具として完成させるプロセスの産物だったわけです。この近代教育によって、文字はある特権階級の専有物となり、オーラルな言語を後進的とみなす態度も生まれる。井上有一は、その「学校」の教師になって書道を教えていました。しかしかれのまわりには、オーラリティとしての世界が生き生きと存在していて、音声言語と文字言語の日常的で家族的な対立が、有一のなかに豊かな分裂の種子を植えつけることにもなったのかもしれません。
国語教育における習字・手習いの時間では、「臨書」といって、文の型をひたすら反復してコピーさせる、ベンヤミンのいう身体的なミメティックとはちがうやり方で手本をできるだけ精確に写させる、という訓練をひたすらやります。こうして文字記号を書くやり方を習うことで、子供たちの手は言語世界に入っていって、読み書き能力を身につけさせられるわけですね。井上有一のような人が、学校教育のなかでさまざまな矛盾を感じなら、具体的にどのように書を教えていたのか、当時の生徒だったひとたちに聞いてみたいような気もします。
ところで、井上有一は1945年3月に横川国民学校で、東京大空襲に罹災して瓦礫のなかに埋もれてしまう。仮死状態になって7時間後に息を吹き返したようですが、これが有一の書の出発点となるひとつの原体験になりました。1978年の作品に「噫横川国民学校」というのがありますが、まさに空襲下の阿鼻叫喚、叫びや呻きや悶絶として発せられる人間の「声」の姿を、われわれの感覚世界のなかでなまなましく喚起させ、響かせるすさまじい書です。1994年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で「1945年以降の日本美術」と題された展覧会が開かれて、そこでこの「噫横川国民学校」が「無我」という作品とともに展示されました。そこでは、ピカソの「ゲルニカ」と同じような文脈づけがなされて、つまり近代政治史における圧倒的な悲劇の経験に対する壮絶な視覚芸術的告発として解釈されたわけですね……。
さて、先を急いで井上有一の経歴をざっと振り返っておきましょう。1950年に、かれは茅ヶ崎一中の教師になります。ちょうどこのころ借家を追い出されて、茅ヶ崎東海岸の空き地に仕事場としての掘建て小屋を勝手に建ててしまう。このあたりの海岸の半農半漁の土地は、ぼくが幼年時代を過ごしたところでもあるのですが、砂丘のはずれのスイカや南瓜の畑のすみっこでしょうか、所有者の判然としない土地の隙き間をスクウォットしてしまう、当時はそんなことがまだ可能なおおらかな無法時代だったのですね。有一はその後茅ヶ崎から寒川町に移り、最後は校長まで務めました。不法占拠民が校長になるなんて、今ではちょっとかんがえられないことですね。そして1976年に教師生活に終止符を打って、書に専念するようになります。
先ほど言ったように、1950年代半ばに前衛の書家として登場し、1952年に墨人会に参加。1957年には、ブラジルのサンパウロ・ビエンナーレに「愚徹」、「無我」を出品しています。そして1985年、亡くなる前月の5月から、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を木炭で全文模写するという試みをはじめました。
配布した資料を見てください。この「なめとこ山の熊」という作品、一見すると乱暴に書きなぐられているようにも見えますが、これは情熱や直観にまかせて書かれたものでは決してありません。すみずみにわたって文字に対する微細な感覚がはたらいていることが、随所にうかがわれます。文字の具象性と立ち会うのは、その瞬間瞬間がすべてです。その瞬間に、書家は創造者としてのみずからの魂を賭けるわけです。だから書いてその文字の「かたち」が瞬間的に気に入らなければ、また字を消して書く、ということを繰り返しています。いわゆる「ミセケチ」ですが、ここではただ単に書き間違えて直しているわけではありません。「なめとこ山の熊」というこの作品は、5月20日に一度中断されて、有一は6月頭に入院します。そして病院でそのまま肝炎で亡くなってしまいました。
なぜ、賢治の「なめとこ山の熊」だったのでしょうか? それは賢治のすべての作品に言えることかもしれませんが、なかでもとりわけこの作品の主題が「模倣(ミメーシス)」、つまり人間と動物との模倣関係だったからにほかなりません。熊撃ちの狩人小十郎と野生の熊とのあいだのミメティックなコレスポンデンス(交感)。「鉄砲」という道具を介して、つまり近代とか文明の側からの殺戮行為を介して、ついには人間と動物とが合体してしまう、そんな深い意識と身体の通底の関係がそこでは描かれていました。物語の最後、熊が突進してきて小十郎はひとおもいに殺され、熊によって埋葬されます。そして星の光りとなって、熊の肉体性とも言っていい別のリアリティの次元へ入っていくわけです。
井上有一は、学校で子供たちをみることと、書の制作に集中することを長いあいだ同時に行ってきました。かれは「寝ても覚めても書に執着する」ということも言っていますが、学校で生徒たちが暴れ回っているのも文字に見えたそうです。有一自身、良寛が空に向かって字を書くことを、ミメティックな身ぶり、「書への没入の身ぶり」と指摘したりもしています。さて、ここで子供の遊ぶ姿に言及していることが重要です。遊びとは、つまりミメーシスのことです。遊びの原型のひとつは、「〜ごっこ」といって何かを真似して遊ぶことですよね。先週少し話した思想家ロジェ・カイヨワが、『遊びと人間』や『人間と聖なるもの』という主著をあらわすとともに、森田子龍の作品のようなミメティックな書に関心をもっていたことは、非常に示唆的です。
ロジェ・カイヨワ、森田子龍『「印」Chiffres』阿部良雄訳、杉浦康平装丁・造本、1979
ところで前回話したように、幼年時代のベンヤミンの前には「原初の本」がありました。活字もまた、なまなましい物質感をもってかれのまえにあらわれていた。おもちゃに手を触れるように、書物や文字に触れること--前言語的な感覚が言語的な意識の構えとして確立されるぎりぎりの敷居に幼年期の本があらわれて、そこでは言語が抽象的な記号体系に回収される以前のあり様を示しています。文字が、ある「かたち」や「モノ」に見えてしまう言語に対するマテリアルな感覚を、しかしわたしたちが追体験することは不可能なことかもしれません。いったん文字言語を獲得した人間が、文字の物質性の世界に立ち帰ることは、容易には出来ません。
井上有一という書家ほど、文字のミメティックに激しくぶつかっていくことで、この不可能事に立ち向かおうとした人物もほかにいませんでした。有一の書は、一言で言えば、言語記号としての文字へ反逆行為です。文字のなかに、ベンヤミンの言うページにぶらさがる「クモの巣」を想像しなおす手がかりを奪還しようとしていた。有一にあって、芸術と生活はかならずしも分離されていない、相互に折り重ねられた営みでした。だとしたら、「なめとこ山の熊」の全文模写をはじめたのは、かれが死を直覚したからだとも言えるかもしれません。文字を書く行為、その営みによって自らの生を終えようとしていた、あるいはミメティックな想像力を介して最後に動物的なリアリティのほうへ浸透していこうとしていた、そう言ってみたい気すらします……。
では、つづけてベンヤミンの「模倣の能力について」という、短いながら非常に深遠な内容をもつエッセイを読んでみましょう。一連の鍵概念を指す用語が出て来ることにみなさん気づいたと思いますが、まずこれを確認しておきます。
Mimesis(模倣)
Similarity(類似)
Correspondence(交感)
Analogy(類推)
“Merkwelt”(しるしの世界)
MimesisやSimilarityは文化概念ですが、英語でいうMimicryのほうは、擬態という意味の生物学的な概念。このエッセイは、まず冒頭で、「自然はもろもろの類似をつくり出す」というところからはじまります。ベンヤミンの時代にも、生物学的な擬態の研究はすでにありました。ところが、「類似を生み出す最高の能力をもっているのは、しかし人間である」と述べている。そして「人間は、模倣の能力を決定的な誘因としない、いかなる高次の機能も所有していないのかもしれない」とまで言っています。動物の擬態というのは、あくまでも種の保存を目的としますが、人間の模倣はそれとはちがう部分がある。すこしあとで、ベンヤミンはこんなことを書いています。
「子供の遊びには、至るところに模倣の行動様式が浸透していて、それが及ぶ範囲は、ひとりの人間がほかの人間の真似をするということにとどまらない。子供は店のおじさんや先生の真似をするばかりではなく、風車や汽車の真似もする」
ベンヤミンは、これを「感性的な模倣」と呼びます。模倣は、人間どうし、同じ種どうしだけではなく、異なる種とのいあいだ、無生物とのあいだにも発動される。物マネ芸というのは形態・声態模写のことですが、子どもは人のことを真似る以前にモノの真似をするものです。ぼくの祖父は、酒に酔うたびに、こうやって床柱にしがみついて、ミーン、ミーンと鳴いて蝉の物真似をしたものです(笑)。なんで蝉の物真似をするのか最後まで謎だったのですが、小さかったぼくはそんな祖父を大変尊敬していました。ともかくそうやって、模様と模様が似ているから同じものにみえる、何かと何かが似ているという類似性を、われわれは模倣を通じて自然や事物の世界から学ぶわけです。
たとえば、言葉(ヴォルテ)は雲(ヴォルケ)に似ている、と音という具体物を媒介に認識することで事物の本質を一挙につかむ。これは模倣の能力を媒介にした個人的なメカニズムの動きです。これとおなじメカニズムの動きは集団の次元でも作用する、ということをベンヤミンはこのあたりで論じようとしています。
ちょっと飛ばしますが、77ページで「類似を生み出すことを最古の機能とする舞踏におけるそれ」という表現がみられますね。先住民のダンス、能、ギリシア劇を思い浮かべれば分るように、演劇が模倣的・呪術的な所作であることは言うまでもありません。しかし、「模倣の能力が次第に弱まって」きているとも指摘しています。そしてこの部分に、「近代人の感覚しうるしるしの世界」という表現があります。Merkenというのはドイツ語で記憶するという意味の語ですが、「しるしの世界(Merkwelt)」は、ここでは身体ではないモノへの刻み、といった意味で、それは舞踊などにみられる古代の呪術的・身体的な「交感(コレスポンデンス)」や「類推(アナロジー)」の残滓でしかない、と書いています。つづいて78ページに、
「模倣の能力が、実際に、古代人のもっていた生活規定的な力のひとつであったとすれば、新生児こそが、この才能を完璧に所有する存在……」
とあります。ここで「新生児」と言うことで、ベンヤミンは個体発生のはじまりをみつめることで系統発生のはじまりをみつめようとしている。個人の記憶と集団の記憶をある連続性の相のもとに捉えて、われわれの時間意識が抱える大きな忘却のなかに人間文化を駆動させる秘密そのものを手探りしようとする、そういう考え方が表明されています。
次の段落では、「占星術」を手がかりにして、「非感性的な類似」という概念が提出されています。占星術では、夜空に散らばる星々を漫然と眺めるのではなく、それらを星座=配置として抽象化された点の集合体にみたてて、ある幾何学的な事物のかたちを読み取ろうとする、そんな認識の次元の転換や飛躍が起こっている。それをベンヤミンは「非感性的な類似」と呼ぶのですが、その最たるものが「言語」であると述べています。79ページ以下、「非感性的な類似」としての「言語」にかかわるベンヤミンの考えを拾い上げてみましょう。
「言語が成立する際の模倣的な振舞い方に対して、擬声的なものという名のもとにひとつの場が与えられてきたのである」
「言語が--このことは明白である--取り決められた記号の体系ではないとすれば、きわめて素朴なかたちをとる場合には擬声的な説明方法として現われてくるような思考方法に、繰り返し立ち返らざるをえないであろう」
「「すべての語--そして言語全体は--擬声語である」[ルードルフ・レーオンハルト『言葉』1931年]と、人びとはたしかに主張してきた。とはいえ、この命題のなかに潜在しているであろう原理的な考え方を明確に述べるだけでも、とても難しい」
擬声語・擬態語(オノマトペ)という概念が、ここに出てきます。音の模倣、音による真似のことですが、日本語はオノマトペが大変ゆたかな言語だと言われています。そして日本語におけるオノマトペの可能性を深く追求し、使用した作家が、ほかならぬ宮沢賢治でした。「なめとこ山の熊」の冒頭を見るだけで、「がらん」、「ごう」、「ごちゃごちゃ」、「べろべろ」、「ぽかぽか」など、オノマトペにあふれていることが分りますが、たとえば、「淵沢小十郎はすがめのあか黒いごりごりしたおやじで」の「ごりごり」になるとあきらかにオノマトペの日常的な使用法から逸脱していますよね。「ごりごりしたおやじ」ってどんなおやじさんなんでしょうね? それはともかく、音声としてのことばは一度記号体系のなかに落ち着いてしまうと、ミメティックがなくなる。その問題に大変敏感であった宮沢賢治は、だからこそ使い古されたオノマトペを離れてこうした新しい擬声語・擬態語を自分の作品のなかでどんどん創造していったわけです。(「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」だったか、「きろきろと鋭い目をして・・・」というようなオノマトペがあったような記憶がありますが、最初に読んだときの鮮やかな衝撃をいまもよく覚えています・・・)
さて、ベンヤミンのテクストに戻ると、少し先の箇所で、言語の模倣的な領域は「語られる語に限定されうるものではない」とも書いています。文字言語にも、模倣の残存があるということです。というよりも、文字や刻みも音声以前には存在しえず、文字も音声もすべて同時的に発生する、ということです。整理すると、言語の模倣的な領域には、1)擬声(態)語(オノマトペ)、2)象形文字(ヒエログリフ)の二つがあって、それぞれに音声としての物質性、形象としての物質性をもっている、あるいはことばに伝えられるミメティックな本質は音声として、形象としてあらわれる、ということです。
人間がどうして言語を作り出すようになったのか、それは、現時点からどれだけ「ことば」の起源を探っていっても最終的には誰にも分らない謎として残るでしょう。音の物真似、音のミメーシスに言語の発生をみる説がありますが、ぼくの個人的な感触では、ラテン文化圏の住人は音真似がたしかに得意ですね。むかしぼくがスペイン南部を旅していたとき、ある町で古い石畳の道を歩いていたのですが、ごろごろおおきな音を出してトランクを引きながら、安宿を探していたことがありました。するとおもしろいことに、行き交う人という人が、皆ぼくのほうをみて、「ゴロゴロ、ゴロゴロ」と音マネをして通りすぎてゆくのです。挨拶代わりなのでしょうが、非常に不思議でゆたかな非言語コミュニケーションがそこに成立することに驚いたことがありました……。さて、80ページに、こうあります。
「言語のもつ模倣的なものすべては、むしろ、焔に似て、ある種の担い手がある場合に限って出現する」
「担い手」のことを「依り代」と言い換えてもいいと思いますが、しかもそれが「記号的なもの」にほかならない、というわけです。ここは、ベンヤミンのユダヤ神秘主義的な言語論がとりわけ強く響いている箇所だと言えるでしょうね。さらにつづいて、
「語や文の意味連関が担い手となって、それに触れてはじめて、電光石火のごとく類似が出現する」
と書いています。「言葉は、本当は雲だった」、こう言うことで、「言葉(ヴォルテ)」と「雲(ヴォルケ)」とのあいだに、突然焔が燃え上がるように類似関係が発生する。ダジャレや地口というのは、こういう「ことば」の模倣的な本質に関わることば遊びですね。しかし、これは決して見過ごしてはならない、おそらく言語の起源や発生にも関わる問題だと思います。たとえば、日本語の「ウラ(浦、裏、心、占、末)」という言葉に、わたしたちが瞬間的な閃きのような類似関係を知覚することは今なお可能でしょう。
「ことば」のなかには、言語の模倣的な領域と、言語の記号的な領域とが存在します。後者の記号的な領域は、音素を単位とする抽象化された記号的恣意性によって成立している。そして言語は、この記号領域に「ことば」が着地することで体系化されるわけですが、と同時に踊りを通じてマテリアルな世界と交感する身体にみられる模倣能力は縮減されてしまいます。さて、最後の81ページに、このエッセイの最大の謎である一文が登場します。
「書く速さ、また読む速さが、言語領域における記号的なものと模倣的なものとの融合を高めるということもありえないことではない」
これは、いったいどういうことでしょうか? 「速読」という方法がありますが、あれは書かれた文章のおおまかな意味内容、最低限の情報が読み取れればいいとする合理的で効率的な発想ですね。この一文は、ちょっと分りにくい翻訳なのですが、逆のことを考えてみればいい。つまり遅く書いて、遅く読めば、言語領域における記号的なものと模倣的なものとがやすやすと融合されない、ということになります。これはどういうことかというと、速読のイデオロギーから離れれば離れるほど、ことばの模倣=ミメティックが記号に埋没しない、回収されない、ということです。遅く読むことで、意味の合理性みたいなものに組み込まれる前に、ベンヤミンの言うあの「クモの巣」にもう一度ひっかかることができる、ということでしょう。そして、難解だ難解だと言われるベンヤミンのテクストを、われわれはそのように徹底的に「遅く読む」ことで、つまり不可解で謎めいた文句をあっさり読み飛ばさないで立ち止まり、手で触れ、その真意をじっくり考え抜くことで、ベンヤミン的な書物論をめぐる別の理解のかたちをつくろうとしてきたわけです。このエッセイの最後の文を確認しておきます。
「「まったく書かれなかったものを読む」[ホーフマンスタール『痴人と死』1893年]。この読み方が最古の読み方である。つまりそれは、すべての言語以前の読み方であり、内臓から、星座から、舞踊から読みとることにほかならない。そののちに、ひとつの新しい読み方の媒介要素、すなわちルーネ文字と象形文字が使われることになった」
ルーン文字(ルーネ文字)というのは、北欧スカンジナビアあたりで使われていた古ゲルマン語の象形文字のことです。
「これらこそ、かつて神秘的な生活習慣の基礎をなしていた模倣の能力が、文字と言語に入りこんでいくためのその入り口となった・・・言語は、模倣的な振舞い方の最高の段階であり、非感性的な類似の最も完璧な記録保存庫であるといえるであろう」
ここに「最も完璧な記録保存庫」という言い回しがありますが、文字言語は古代的な模倣性を刻み込んでいるものだとはっきり言っています。そして、
「言語とはひとつの媒介であり、模倣(メーディウム)によって[類似を]生み出し理解する古き時代の力がこの媒体へと残りなく流れこみ、ついには、それらの力はそこで魔術の力を清算するに至るのだ」
「魔術の力を清算する」という言い方で、ベンヤミンは、神話や呪術によらないで文字言語は模倣の能力を伝達しているのだ、と主張するわけです。これは、非常に独創的で特異な言語観です。
後半は、やや駆け足になってしまいましたが、来週はベンヤミンの「griff=指使い」という概念について考察してみたいと思います。ベンヤミンの思考の根底には、「書かれたもの」は歴史を供給する母胎(マトリックス)として存在する、という考えがありました。今日は、ベンヤミンの『ドイツ悲哀劇の根源』から、以下のこれまた大変おおきな謎をはらむ一節を引用して、それを読んで終わりにしたいと思います。
「悲哀劇によって歴史が舞台にもち込まれるとき、歴史は書きものとして入ってくる。自然の顔には、有為転変のはかなさを表わす象形文字で「歴史」と書かれているのである」
さあ、どういうことでしょう? ある人格性をそなえた仮面のおもてに、蜘蛛の糸のような文字で「歴史」と書かれている。その仮面の主が、「自然」である……。ディスコース=叙述によって歴史に物語が与えられるのではなく、「歴史」という「ことば」のみが何ものかのおもてに書かれている、刻まれている……。これがいったいどういうことなのか、みなさんもまたベンヤミンの一連のテクストをもう一度「遅く読んで」、それぞれの解釈を考えてきてください。
(2007年11月某日、於東京外国語大学。聞き書き:浅野卓夫)
○ヴァルター・ベンヤミン「模倣の能力について」『ベンヤミン・コレクション 2 エッセイの思想』浅井健ニ郎(編訳)ちくま学芸文庫、1996.
○井上有一『日々の絶筆』芸術新聞社1989.
○ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』岡部仁訳、講談社文芸文庫、2001.
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